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福沢諭吉の10の言葉(2)

福沢諭吉の10の言葉(2)

5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。

当社ではお客様と社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。

以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。

京都大学大学院 工学研究科 准教授 川端雄一郎先生をお招きし、2023年10月20日に東海東京証券日本橋オフィスにて第3回オフサイトセミナーを開催しました。

前回の記事では導入部分に相当する、なぜ福沢諭吉を学ぶのかという点を中心にまとめました。後編である今回は、福沢の思想や川端先生が紹介された言葉をいくつか抜粋していきます。

・福沢諭吉の10の言葉(1)

福沢諭吉の文明論

19世紀西洋諸国は学問・経済・技術・政治ほか、あらゆる面において日本や中国を圧倒しており、日本もいずれは西洋列強に隷属させられる可能性があり、国としての独立を維持するという前提が福沢の思想の根幹にあります。

西洋と対峙するためには、日本も文明化=西洋化を進める必要があり、福沢は西洋が優れる理由を、「知識」「技術」という表面的なものだけでなく、それを生み出し、広め、改良し続けるような気風・態度・文化・習慣を持ち、それらが西洋文明を支えていると考えました。

日本が文明化を果たすためには、西洋の優位性を特徴づける諸要素の本質を掴む必要があると福沢は考え、特に物質ではなく精神的な側面(智徳や気風)を重視し、活発なコミュニケーションが文明の肝要な部分と指摘します(『文明論之概略』、第3章「文明の本旨を論ず」)。

日本社会についての分析

福沢の所見では、日本人は西洋にも劣らない潜在的な「智力」「徳性」を持っているが、封建時代の「専制」(上意下達、阿諛追従など、厳しい上下関係に基づく社会秩序)に慣れすぎるあまり、自分の考えがあったとしても目上の人には絶対に逆らわないという作法や習慣をディシプリンとして身に付けてしまったのみならず、儒学や漢学といった学問も役に立たない訓詁学(字句の注釈や解釈を主とする学問)に陥ってしまい、本来の「智徳」の発露が妨げられているといった点が指摘されています。

西洋と比較した際にその閉鎖性(川端先生の言葉でいえば「システム」)が劣った要素として顕れやすい儒教の道徳に由来する長幼の序や、封建的主従関係や身分制などドメスティックな人間関係をから自由になり、風通しの良い、新しい文化・習慣を定着させる(=文明開化)ことで日本人が持つ潜在力を発揮できると福沢は考えます。

一般的な福沢のイメージは近代・封建的な社会を近代に転換させた開花論者かつリベラルな人物として受容されがちですが、川端先生は個人主義や自由放任とは異なり、日本の一国独立という明確な目的を持ち、その目的に繋がる限りにおいて福沢は文明開花や自由を強く奨励したという点を、川端先生は付け加えます。

川端先生によれば、福沢の思想では重要なキーワードとして「天理」)という言葉が頻出するといいます。福沢の用いる「理」は宗教的な意味はなく、正しいこと、道理に近い意味を持つ言葉で、彼の著作においては「天理」の追究が様々な行動の中で重視されます。「天然」という言葉も「天理」と並んで頻出します。福沢のいう「天然」は人間として自然な暮らし方、能力を発揮できるような環境や、素直に人間を見ましょうという観点を既成概念にとらわれずに考えようとする姿勢で、「天然」の傾向を妨げないことも重要視しています。

概略的ではありますが福沢の思想的背景(の一側面)を講演を基盤にして振り返ったので、次節から川端先生が選抜された福沢諭吉の言葉を見ていきます。

選抜された言葉は、見出しタイトル毎に分けられており、その中からいくつかを抜粋してまとめていきます。

文明の精神と智徳

徳義にも智恵にも、各(おのおの)⼆様の別ありて、第⼀、貞実、潔⽩、謙虚、律儀等の如き、⼀⼼の内に属するものを私徳といい、第⼆、廉恥、公平、正中、勇強の如き、外物に接して⼈間の交際上に⾒わるる所の働を公徳と名(なづ)く。また第三に、物の理を究めてこれに応ずるの働きを私智と名け、第四に、⼈事の軽重⼤⼩を分別し、軽⼩を後にして重⼤を先にし、その時節と場所とを察するの働を公智という。故に私智、あるいはこれを⼯夫の⼩智というも可なり。公智、あるいはこれを聡明の⼤智というも可なり。

⽽してこの四者の内にて最も重要なるものは、第四の⼤智なり。

『文明論之概略』岩波文庫、p.119


『文明論之概略』の前半で頻出した「智徳」という概念は、引用部で「智恵」と「道徳」に分けられた後、それぞれを「私」と「公」に分割し、総計4種類に細分化されます

私徳は個人の心の美しさ、公徳は人間関係に関連したもの道徳(恥、公平、正中など)で、個人的なものと他人との交わり(他者の存在によって生じる意識)という2つの徳に分類されます。

私智は「ものの理を究めてこれに応ずるの働き」であり、特定の状況で、与えられた問題を解くようなもので、福沢によれば科学・美術なども私智に含まれますが、私智の中にそれらを含むことについて、現在の感覚からすると違和があると川端先生は補足されます。

公智は技術ではなく人間の活動全般を指し、公智は物事の状況・優先順位の判断力であり、続く一文では 私智を「小」、公智を「大」として定義し、状況判断が最も大事であるがゆえに、文明の発展にとって国民が大智に詳しくなるのが重要と述べられます。

概していえば、⽇本の⼈は仲間を結びて事を⾏うに当り、その⼈々持前の智⼒に⽐して不似合なる拙を尽す者なり。

『文明論之概略』岩波文庫、p.114

⻄洋の⼈は、智恵に不似合なる銘説を唱て、不似合なる巧を⾏う者なり。東洋の⼈は、智恵に不似合なる愚説を吐きて、不似合なる拙を尽す者なり。今その然る所以の源因を尋ぬるに、ただ習慣の⼆字あるのみ。

『文明論之概略』岩波文庫、p.115

福沢の智徳論を踏まえての引用ですが、日本人は個々としては優れた知見・知識を持っているが、集団・組織になるとそれを発揮できない一方、西洋人は智恵に比して様々なことを巧みに行い、東洋人は智恵があるにも関わらずそれを活かすことができず、その原因は習慣にあるといいます。東洋人が智恵を活かすことができない理由のひとつとして、先にみたように長幼の序に基づく文化・慣習があると思います。

私徳偏重の日本

私徳は個人の心の美しさを指しますが、福沢、西洋の「殉教(マルチルドム)」と日本の自己犠牲的行為を比較し、前者は「天理」に基づいた教義のために一人の身を失うのみですが人員・資本を多く浪費する内乱よりも高い効果を持つ一方、日本の主従関係や忠義に基づく自己犠牲的な行為の多くは個人的関係から派生する私徳であり、それらは美的であるものの実益がなく、西洋の「殉教」的な道徳的践例は日本では殆ど見られないと指摘します。

世を患いて⾝を苦しめ或いは命を落とす者を、⻄洋の語にて「マルチルドム」と⾔う。失うところのものはただ⼀⼈の⾝なれども、その効能は千万⼈を殺し千万両を費やしたる内乱の師(いくさ)よりも遥かに優れり。古来⽇本にて討死せし者も多く切腹せし者も多し、何れも忠⾂義⼠とて評判は⾼しと雖も、その⾝を捨てたる由縁を尋ぬるに、多くは両主政権を争うの師に関係する者か、または主⼈の敵討等に由って花々しく⼀命を擲ちたる者のみ、その形は美に似たれどもその実は世に益することなし。

『学問のすゝめ』岩波文庫、p.70 


然るに今、孜々(しし)として私徳の⼀⽅を教え、万物の霊たる⼈類をして、僅にこの⼈⾮⼈の不徳を免れしめんことを勉め、これを免かるるを以て⼈⽣最上の約束と為し、この教のみを施して⼀世を籠絡せんとして、かえって⼈⽣天禀(てんびん)の智⼒を退縮せしむるは、畢竟、⼈を蔑視し⼈を圧制して、その天然を妨ぐるの挙動といわざるを得ず。

『文明論之概略』岩波文庫、p.147


福沢が見るに、日本の教育では智恵より徳、公徳よりも私徳を教えることに偏重しており、まじめであること(=人非人ではないこと)のみが人生最上の理想であるとされていました。さらに、人が本来持っている天性の智力・能力が過剰な上下関係(「人を蔑視し人を圧制して」)は、個々人間や閉鎖的な関係性の中で完結する道徳教育の影響でその発露が妨げられてきました。

日本の慣習としての私徳偏重の影響は教育のみならず政治・経済、組織運用、日常生活などの様々な場面で根強く残っている印象があり、私徳(個人/内的)―公徳(開かれたもの、社会との関わり)という観点からそれらの事象を考えると、これまでとは違った視座が獲得できると思います。川端先生が抜粋された言葉のなかには、特に他者との関わり方についての教訓のようなものが多数あり、それらを現代的なもとして活用するのであれば、組織論やコミュニケーション、内観法(内省法)に類似したものになるでしょう。

 俗っぽく例えれば自己啓発本やハウトゥー本のような内容でもありますが、福沢がユニークな点は西洋との比較や、日本の文明的な特徴・習慣などから日本人の持つ文化的な特徴の良し悪しを言語化し、西洋列強と比肩するための教育・啓発を広めるための戦略を思案してきたという点です。

 福沢の言葉の多くは、西洋列強への対抗という大義がなくなった現代でも、当たり前のように受け入れてきた価値観や慣習が言語化されることによって「なるほど」と感じさせられる点、つまり古典が書かれた当時から現在まで存在する普遍的な要素が数多く含まれています。

「商売」と「人望」

 最後に抜粋するのは、「商売」や「人望」についての言葉である、金融やウエルスマネジメントに携わる人にとっては非常に身近なトピックであるといえます。

余輩敢えて守銭奴の⾏状を称誉するに⾮ざれども、ただ銭を⽤いるの法を⼯夫し、銭を制して銭に制せられず、毫も精神の独⽴を害すること勿(なか)らんを欲するのみ。

『学問のすゝめ』岩波文庫、p.145


守銭奴のように常日頃お金のことを考えるのは良いこととは思わないが、お金や資産の管理を失敗内容に工夫することが大事であり、それに伴って精神の独立が発生するというのは問のすゝめ』の最終章に登場する下りで、その前には悪しき見本として散財家の人物が登場するなど、お金の管理は道徳的に重要な要素であることが指摘されています。

⼗銭より⼀円、⼀円より千円万円、遂には幾百万円の元⾦を集めたる銀⾏の⽀配⼈となり、または⼀府⼀省の⻑官となりて、啻(ただ)に⾦銭を預かるのみならず、⼈⺠の便不便を預かり、その貧富を預かり、その栄辱をも預かることあるものなれば、かかる⼤任に当る者は必ず平⽣より⼈望を得て⼈に当てにせらるる⼈に⾮ざれば、迚(とて)も事をなすことは叶い難し。

『学問のすゝめ』岩波文庫、p.152、人望論


他人の大事なものを預かる仕事を遂行するうえでは、技術や資金ではなく、普段から当てにされるような人望を持たなければならないと福沢は説きます。一見すれば現在でも当たり前のことではありますが、およそ150年前から言われているという点は留意すべきでしょう。

大事な資産をお預かりする我々の業務はお客様からの信頼や人望があって成立するものです。ウエルスマネジメントに携わる者にとっては、「ただ銭を⽤いるの法を⼯夫し、銭を制して銭に制せられず」や「かかる⼤任に当る者は必ず平⽣より⼈望を得て⼈に当てにせらるる⼈に⾮ざれば、迚(とて)も事をなすことは叶い難し」とい言葉は特に強く響きますし、福沢の考える公徳・公智はマクロな視点考えると、我々の理念である5バリューと高い親和性を持っていることに気づかされます。

記事内でご紹介した言葉は全体の一部分であるため、前後に引用された部分を踏まえるとまた受け取り方が変わってくると思いますので、ぜひアーカイブ動画も合わせてご覧下さい。





鈴木 真吾

鈴木 真吾

2023年3月よりインハウスクリエイターとして写真・映像撮影および編集、グラフィックデザイン、DTPなどを担当。専攻は文化社会学、表象文化論等。

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