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利他の構造(2)

利他の構造(2)

5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。

当社ではお客様と社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。

以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。

2024年5月10日、第5回のオフサイトセミナーを開催しました。第5回は政治学者の中島岳志先生(東京工業大学 リベラルアーツ研究教育院 教授)にお越しいただき、「利他の構造」という演題で、中島先生の著作『思いがけず利他』(2021、ミシマ社)の内容をベースに、様々な「利他」や、その構造についてのご講演を頂きました。

主な内容は『思いがけず利他』で言及されたケーススタディなどをより深く・わかりやすく解説されたものですので、本サイトに掲載の記事と合わせて、同書の参考資料としてご活用頂ければ幸いです。また、記事の最後にアーカイブ動画へのリンクがありますので、よろしければそちらもご覧下さい。




前半部分は利他の構造に関わる部分が中心のお話を頂きましたが、後半部の冒頭では中島先生の専門領域である政治と利他の関連が中心に展開されます。

自己責任と小さすぎる政府

政治学者はここ20年ほどの間、貧困格差、小さな政府、新自由主義といった問題と向き合ってきたといわれています。新自由主義は90年代後半(橋本内閣時代)から形を帯び始め、それが国内に根付く決定的な契機となったのは、構造改革、官から民へ規制緩和といいた言葉が代表的な小泉内閣時代です。

近年の日本は、租税負担率、全GDPに占める国家歳出の割合、公務員数といった指標と比べて「小さすぎる政府」という状態にあり、セーフティーネットのないすべり台社会となっています。中島先生ら保守的な立場からすると新自由主義が覇権的な現在は看過せない状況にあるといわれます。また、政策論に携わってきた中島先生は日本人の持つ人間観の問題、より具体的にいえば「自己責任論」にメスを入れなければ問題解決に繋がりにくいという実感があるそうです。

近年では生活保護や公的支援などのセーフティーネットの利用に対し、自己責任(日本独特の言葉)を掲げた批判が顕著にみられます。また、中島先生によれば自己責任という言葉が政治の舞台に出てきた時期は明確であり、ボランティア2名とジャーナリスト1名が現地武装勢力の人質となった2004年のイラク日本人人質事件の際に政治家から自己責任という言葉が発せられました。また、自己責任という言葉を使ったのは、現・東京都知事で当時は環境大臣の小池百合子氏でした。

人質となった3名の帰国後は激しいバッシングに晒され、家族をも巻き込む形で批難を受けました(3人のうち2名は当時北海道在住で、北海道大学に勤務されていた中島先生と事件後に頻繁な交流があったそうです)。一方、人質事件と対照的な事例として2018年のタイ・洞窟遭難事故が取り上げられます。

タイ・洞窟遭難事故(タルムアン洞窟遭難事故)はサッカーコーチと少年12人が、雨季で水位の上がった洞窟に閉じ込められました。救出にあたったダイバー1名の死亡や、洞窟内の水を排水によって樹木の枯れや、畑の被害も発生しましたが、遭難者は全員無事に救助されました。この事件について、救出後には人質事件のようなバッシングが、特に遭難者の中で唯一の大人であるコーチに向けられるのではないかと中島先生は危惧したそうですが、タイ社会では歓待を持って迎えられたことに驚いたそうです。

自己責任論の超克と親鸞の思想

 現在の日本社会に蔓延する自己責任論に対して、中島先生は親鸞の思想を取り上げます。弟子の唯円が親鸞の思想を記した『歎異抄(たんにしょう)』の13章に「さるべき業縁のもよおせば、いかなるふるまいもすべし」という一節があります。これは、色んな縁や人智を超えた力学(業)が自分にふりかかってきたら、自分自身でもどんな振る舞いをおこすかわからないという意味です。

自己責任論を掲げて他者を批判する人も、同じような境遇に陥った際に適切に振る舞えるという確証はありません。また、『思いがけず利他』では、他者への共感や寛容性や、「自分がその人であった可能性」(偶然性の問題)が加熱する近年の自己責任論に欠けていると指摘されます。

人間の理性は確かなものではなく、「煩悩具足の凡夫」(煩悩以外何もない)であり、間違えやすく、どうしようもない側面があり、不完全な存在であり、すべからく悪人であるという人間観を持っており、自分のどうしようもなさや限界を見つめたときに、そこに「他力」(あるいは「仏力」/如来の「本願力」)がやってくるという親鸞の考えは、保守思想に近い部分があると中島先生は分析されます。

親鸞の思想を踏まえ、自己責任論がもっている人間観を根本的に疑うためには、近代的主体への懐疑というテーマを深めてきた日本哲学が参考になるとされ、今回のお話の中では、京都学派の哲学者九鬼周造の『偶然性の問題』(1935)が紹介されます。

九鬼周造といえば『「いき」の構造』(1930)が有名な著作であり、その書名に聞き覚えのある方も少なくないと思います。やや難解とされる『偶然性の問題』は、偶然という問題を西洋哲学は避けており、私たちはすべからく、偶然的な存在あるという存在論からの問い立てを始めます。

「私」という存在を形作るもののほとんど、例として生まれた育った時代や国、母語などは「私」が選択したものではなく、偶然の産物であるというのが、偶然性(必然性の否定)に立脚した主体観であり、今の自分が自分であるということや、何らかの出来事の偶然性を突き詰めていくと、「原始偶然」(これ以上遡ることのできない地点)にたどりつきます。

偶然的な存在は、たまたま今存在していますが、存在しない可能性もある存在であり、「(私たちは)否定を含んだ存在、無いことのできる存在」でもあります。私が生まれたのは私の意思ではなく、私の存在は外部によって規定されたもので、私の生は与えられたものとしか言いようがないものであるため、問題の所在を個人の自己責任として端的に転化できるものではないというのが、自己責任論への応答の基盤となります。

偶然性と環境

今、私が現在的な状態にあるのは偶然である(環境に恵まれる/恵まれない偶然、潤沢な文化資本に囲まれた/文化資本に縁のない環境など)という視点がなければ、現在置かれた状況はそれが良くも悪くも近代的主体という個人の行動の結果に帰されてします。

偶然性を考える際には、成育・教育環境がわかりやすい例になります。中島先生が現在勤務する東工大と前勤務先である北海道大学はいずれも高いレベルの大学であり、特に付属の中高一貫校を持つ東工大学は内部進学のエリート学生も多いそうです。そこで中島先生が新入生に伝えるのが、頑張って入学できたことは讃えるが、それはあなたの力のみで達成されたものではないということを考えるべきということだそうです。また、実家に帰ると、自分の勉強机があるか? という質問には全員の手が上がり、塾に通っていたという質問でも同様に全員の手があがったそうです。つまり、家に勉強机があり、塾にも通わせてもらえるという環境に生まれたという偶然性が、今ここ(東工大学)にいるということに大きな関与をしていることに目を向ける必要があるということです。

定員割れの続く府立高校を廃校対象にする「大阪府立学校条例」との関連で、中島先生が大阪の底辺校に調査に行った際、家に勉強机があるかと聞くと7割以上がないと答えたほか、今でいうヤングケアラーとして兄弟姉妹の面倒を見ているという生徒が多かったといいます。そういった環境に生まれた偶然性という視野をもたなければ、競争原理の意識で凝り固まった新自由主義的な自己責任論から距離を取って、想像的・寛容的な姿勢で他者について考えることは難しいでしょう。

自己責任論の文脈では、自分たちは頑張ってきたので良い学校・良い会社に入れるのは当然であり、頑張っていない者は三流の学校にしか入れない・就職がうまくいかなくて当然=自己責任だというような論調が整然とまかり通りますが、必然的に存在する(ように思っている)主体を前提にした比較論であり、偶然性という人間観を持ち込むことで自己責任や必然的な主体に対しての懐疑が提示されます。

自分の努力だけではなく、偶然与えられたものによって今の自分があると考えることは非常に重要なことで、自己責任論にも疑いを持つ必要があるというのが、『偶然性の問題』から中島先生が導き出したひとつの人間観であり、「意思」「選択」「責任」がセットになった近代的人間観への懐疑でもあります。

戦後民主主義を通じて丸山眞男によって牽引された個の確立(近代的人間の形成であり、全体主義に対する反省)は、様々な民主主義の土台となる考えであるため尊重すべき人間観ではあるものの、人間がそれだけで語れるのかという懐疑があり、その足掛かりになるのが九鬼周三や親鸞の人間観であると中島先生は論じられます。

与格という文法

これまでに確認したように、西洋的価値観に基づくあるいは日本の戦後民主主義的な人間観は、能動的な意思を持つ独立した主体が存在するということを前提にしており、近年の日本社会の潮流においては、独立した主体と自己責任が短絡的に結びつけられがちです。ですが、潮流に流されないような立場で人間観を考える、いいかえれば主体に対する凝り固まったイメージをほぐすための手がかりとして、ヒンディー語の「与格」を用いた主体のあり方が紹介されます。

『思いがけず利他』の中でも重要なものとして登場する「与格構文」は、「私(I)」を行為主体ではなく、行為や感情が留まる器のような客体として捉え、己の意思や力が及ばない領域から湧き上がってくる現象について表現する構文で「私〈は〉~だ」は、「私〈に〉~が留まっている」と表現される。例として、「私は嬉しい」は「私に嬉しさが留まっている」と表現されます。

参考記事: 中島岳志「利他的であること」(第8回 与格-ふいに その1)

ヒンディー語には「主格(~は)」と「与格(~に)」が存在し、行為や状態が意思の外部に規定されるときに与格を用いるとされます。風邪を引いた場合などがわかりやすく、風邪は自らの意思ではなく、不可抗力や思いがけずひいてしまうものです。自らの意思ではなく外部的な要因によるため、与格を用います。そのほかにも喜びなど、湧き上がってくるような感情の機微にも与格が用いられます。

ヒンディー語の言語構造を参照すると、人間には与格のゾーン(思いがけず / 不意に / 突然思い出すなど)が広くあるという認識や、「私」がすべてコントロールしているものではないという世界観が見出せます。

中島先生がインドでの調査を行っていた際、現地の人に最初からヒンディー語で話しかけると、ヒンディー語話者の外国人は非常に稀有なために警戒されてしまうので、最初は英語で数分話したのち、突然ヒンディー語に切り替えると、相手は中島先生自身に興味を持ち、質問攻めにあって調査が円滑に進むそうです。その際「ヒンディー語ができるの?」という質問には与格を用いるそうです。与格を用いた質問を直訳すると「あなたにヒンディー語がやってきて、留まっているのか?」となります。

「言葉がやってきて留まっている」という言語構造を考えた際、まず言葉はどこからやってくるのかという疑問が提示されます。言葉は一義的には死者/先祖からやってくるもの、後ろからやってくるものです。もっと根本には神から言葉がやってくるという認識があり、人間は神からやってくるものを受け取る〈器〉であるという感覚をインド人は強く持っているそうです。

与格はヒンディー語特有のものではなく「中動態」とういう概念で、古い言語に共通してみられるものです。古い言語ほど与格のゾーンが広く、現代になるにつれてゾーンが狭まり、与格を主格に読み替えて使われることが多くなります。

日本語の中にも与格構造があり、「私には思える」「思いが巡ったり宿ったりする」といった文章は、「I think」とは異なる与格的なものです。ほかに中島先生があげられた例としては、電車から銭湯のトンネルを見て、幼少期に父親と銭湯にいったことを不意に思い出すなどがあります。

日本語における「思う/想う」は「I think」だけでなく、与格構文のように、思いが「私」の中に留まっている(こみ上げてくる)というニュアンスが含まれており、そういった文法構造からなる人間観を近代的なものに対置し、その重要性を説いてきたのは日本哲学ではないかと中島先生はまとめられます。

余談ですが、不意に感情がこみ上げる・何かを思い出すといった例は近代文学の中にもよく表れているというような印象があり、筆者が銭湯の下りを聞いたときにふと思い出した作品は田山花袋の『蒲団』(1907)でした。

場所と与格的主体

与格的主体についての解説で次に取り上げられるのは、京都学派の創始者である西田幾多郎の「場所の論理」(述語論理)です。西田は「主語論理」と「述語論理」という2つの論理を用いた議論を展開し、近代人は主語によって物事を動かしていると考えがちですが、西田は述語が先にあるのではないかと問います。

「主語論理」は個々の主体や客体(主語)から出発し、それらがおかれている場所(述語)は主語に属するとする論理で、「述語論理」は場所(述語)から出発し、場所/述語に関連付けられた主体、あるいは述語部分に内包された主体について語る論理です。例として「私は嬉しい」は「主語論理」、与格構文のような「あなたにヒンディー語がやってきて、留まっている」は「述語論理」に近いものです。

中島先生が体験した実例の中では「陶工の心得」が、「場所の論理」の参考として紹介されます。陶芸体験で、ろくろの前では「計らい」を捨てて無心になることで、おのずと皿が表れてくるというアドバイスを頂いたそうです。それは職人の心得である「仕事が仕事をする」(人間と仕事の一体化)というような姿勢でもあります。陶工の職人は無心の手動きによって物を作っており、「私の計らい」(主語や行為主体)という主語が先にあるのではなく、「回っているろくろに手を添えるという」述語(場)が先にあります。場があるとしか言いようのないものを、西田は「場所の論理」と呼び、主語(〈私が〉皿を作る)によってコントロールされる世界観から脱却し、述語的な存在として人間を考えます。

西田の「場所の論理」をより実例的にしたものとして、次に中島先生が取り上げるのは柳宗悦の「民芸」論です。柳は芸術的な作品 / 美術品よりも無名の庶民 / 職人が作った無銘の工芸品などに「用の美」を見出します。

柳は使用目的で制作された実用的なものに美しさを見出し、庶民の無心によって作られた作品に他力/仏の力が訪れることで、おのずから美が宿ると論じます(『美の訪問』)。ここでも、私〈が〉美を創造するのではなく、無心な場に他力が訪れるという「述語論理」が見いだせます。さらに、中島先生との共著『料理と利他』(2020、ミシマ社)などがある土井義春さんは家庭料理を民芸に例え、美味しさはやってくるもの、人間の計らいは料理に表れてはならないと指摘します。

利他の本質と主体の関係

日本思想の中で最初期に利他について言及したのは最澄とされており、「忘己(もうこ)利他」(「己を忘れて他を利する」)という言葉を残しています。「忘己利他」は滅私奉公のようなものとして誤解されてきた言葉ですが、仏典などを詳細に読み解くと主語的/主格的な「私」を超えて・忘れて器になる瞬間こそが重要という意味合いになります。与格的な存在あるいは己に対する過信を忘れ仏の器になったところに、利他はおのずとやってくるもので、おのずと、不意に行ってしまうオートマティカルな行為に利他の本質があると中島先生は分析します。

そして最後に、『思いがけず利他』では言及されていない志賀直哉『小僧の神様』(1920年、『白樺』、1月号)が、利他についての際の鋭い見解がある資料として紹介されます。

主な登場人物は貴族院議員のAと丁稚奉公の仙吉(小僧)で、Aは神田の寿司屋台の前で仙吉と出会います。屋台鮨の名店の話しを聞いた仙吉は、意を決して屋台に入り鮨を掴みますが、大将から言われた値段では仙吉の所持金が足りず、ばつが悪そうに屋台を出ていきます。それをみたAは仙吉をかわいそうに思い、今度小僧に出会ったら鮨を奢ろうと考えます。

一か月後Aが秤屋さん(偶然にも仙吉の奉公先)に入ると仙吉をみかけたので、彼を鮨屋に連れていき、たらふく鮨を食わせてくれと女将に頼んでその場を去りますが、「変に寂しい気持ち」がAの中に湧き上がります。

Aは変に淋しい気がした。自分は先の日小僧の気の毒な様子を見て、心から同情した。そして、出来る事なら、こうもしてやりたいと考えていた事を今日は偶然の機会から遂行出来たのである。小僧も満足し、自分も満足していい筈だ。人を喜ばす事は悪い事ではない。自分は当然、或喜びを感じていいわけだ。ところが、どうだろう。この変に淋しい、いやな気持は。なぜだろう。何から来るのだろう。ちょうど人知れず悪い事をした後の気持に似通っている。

若しかしたら、自分のしたことが善事だと云う変な意識があって、それを本統の心から批判され、裏切られ、嘲られているのが、こうした淋しい感じで感ぜられるのかしら?  もう少しした事を小さく、気楽に考えていれば何でもないのかも知れない。自分は知らず知らずこだわっているのだ。然しとにかく恥ずべきことを行ったというのではない。少なくとも不快な感じで残らなくてもよさそうなものだ、と彼は考えた」

――志賀直哉「小僧の神様」(『和解・小僧の神様 ほか十三編』、講談社)

後半部は仙吉視点から見た、神様のような存在であるAについての話になりますが、利他との関連ではAが中心になるので、中島先生のお話でも割愛されています。

 仙吉に鮨を奢るという目的を果たしたAは、なぜが嫌な気持ちになったのか。それは鮨屋台で仙吉を見かけた際、身が動かなかったことに起因します。今度あったら奢ってやりたいという主格的な行為ではなく、屋台で仙吉をみかけた際に思いがけず身が動いたとすれば、それは与格的な利他行為であるため、目的を果たした後もすっきりとした心持ちになります。しかし、仙吉に哀れみや同情を抱き、〈今度〉あったら奢って〈やらないと〉、と思ったことで、Aは自分の中にわだかまりを残してしまいました。

 中島先生のお話に付け加えると、太宰治は評論「如是我聞」(『もの思う葦』、1980、新潮社 所収)の中で、「小僧の上神様」について手厳しい評を記しています(自作を批判した志賀直哉に対する私怨的な部分も多くありますが)。

『小僧の神様』という短篇があるようだが、その貧しき者への残酷さに自身気がついているだろうかどうか。ひとにものを食わせるというのは、電車でひとに席を譲る以上に、苦痛なものである。何が神様だ。その神経は、まるで新興成金そっくりではないか。

―太宰治「如是我聞」(1948)

太宰の指摘には、贈与の持つ権力性や支配関係が思いがけず浮き彫りにされており、A自身も「新興成金」のような振る舞いに、わだかまりを抱いたのかもしれません。また、太宰は電車で人の席を譲ることにも言及している点が興味深く、中島先生も同様の状況について言及されています。

最初に仙吉を見かけた際、とっさに身が動かなっかたAは、電車の中で席を譲ろうと思った際に逡巡してしまうケースに似ています。あれこれと考え、悩んだあとに席譲るのは主格的な行為のため、周囲の目を変に意識してしまったり、ばつの悪さや、もやもやが残る結果になります。一方、思わず、反射的に身が動いてしまうようなものは与格的な利他であり、行動した後もすっきりした気持ちになります。

考えた末に行うものではなく、思いがけず/不意にやってしまうということが、利他の本質にあり、身が動くためには、器としての与格的な主体となるだけでなく、日々のイメージトレーニングや反復的な実践が重要なものとなります。ボランティアなどは反復実践の好例で、活動に参加し始めた頃や利己的な動機や、周囲の目や評価を気にするような自我が残りがちですが、何度もボランティアに参加していると、意識せずとも体が動くようになり、震災などがあった際には即座にチケットの手配してしまうようにもなるそうです。

そのほか、興味深いお話としてクラウドファンディングの例も紹介されました。ボランティアと同様、何度もファンディングに参加していると、良いなと思ったものに(リターンなどを気にせず)即座に支援を行うようになったケースも見られたそうです。

近年では2023年行われた国立科学博物館の経営・維持を目的にした、クラウド・ファウンディングも記憶に新しく、1億円を目標に掲げたファウンディングは開始から90日で5.4万人に支援者から8.8億円を集め、支援は最終的には約5.6万人、約9億1600万に達しました。科学博物館のクラウドファンディングが短期間で記録的な成功を収めた背景にも、コロナ禍で与格的な利他を繰り返すことで、身が動くようになった人も多くいたのではと考えられます。

利他と5バリュー

弊社では定期的に社内勉強会を開催しております。第5回オフサイトセミナー後は、「利他の観点からの5バリュー」といったテーマで少人数のグループディスカッションを行い、代表者が内容をとりまとめて発表するという形式で、研修を通じで学んだ内容を応用的に考え、共有する取り組みを行っています。

これまでの発表では、好みの押しつけが利己となってしまう、利他は相手によって規定されること、お客様との関係性、利他という観点をビジネスに結び付けられるか?  といった話題が提起されました。

『NHKのど自慢』のバックバンドのように主体に寄り沿うという実践を行うためには相手の事よく知る必要があり、そのためには、弊社が掲げる5バリューにもある「誠実さ」「個人の尊重」といった部分を念頭におき、誠意をもって相手に接することがある種の利他に繋がっていくのではという意見もありました。

証券界と利他を比較して考えると、お客様の要望の中にも利己的な部分が含まれるため、本来の意味での信頼関係を築くためには、時間をかけてお客様と接する回数を増やす事が必要となります。それをくり返すことによって、強固かつ信頼感で結ばれた関係性が構築されていくことが望ましいのですが、トップダウン方式で決められた商品を一律に販売する日本の証券会社だけでなくIFA業界も、自らにとって都合の良いEBのような商品をこれまでに大々的に売り出したこともあり、お客様の話をしっかりと、聞きそのニーズに十分対応できてはおらず、利他ではなく利己が強く出ているような状況にあります。

メリルリンチやアメリカのウエルス・マネジメントの場合、日本的な「会社と顧客」という内と外の線引きが明確な関係性とは異なり、人と人との長い付き合い(時には世代を超えて)が継続されます。個人と個人の長い付き合いを通じて相手のニーズに合った商品提案を行うスタイルがあるからこそ、世代を越えた利他の関係が成立しやすいと考えられます。

アメリカのウエルス・マネジメントでは現場がイニシアチブを持っており、要望を上にあげていくことでチームが編成されます。また、平等性やチームワークなど、利他の精神に近いものも重視されるのに対し、日本の場合はトップダウン方式がまだまだ根強い傾向があります。それに対し、当社5バリューアセットは、同じような思いや志を持ったメンバーが集まっている会社なので、チームワークや利他の精神を忘れないようにすべきという意見も寄せられました。

利他とビジネス

営利企業である当社のビジネスに、利他の精神をどのように繋げていくかという設問は、非常に難しいものです。「会社のためにという設問設定の段階で、すでに利他ではなく利己になってしまうのではないか?」、「利他はあくまでも利他として考える必要があるのではないか?」という意見も寄せられました。また、「長期に渡って関係の続くお客様は、ファイナンシャルアドバイザー(FA)の持つ利他の精神を感じ取っているか?」 という論点もでましたが、長い結びつきのあるFAとお客様の関係を利他に結び付けてしまうのは、やや唐突で強引という意見がありました。その他にも、長期的に続く関係はFAの立場から見ると顧客との相性の良さもあるのではないか? という問いもありましたが、相性の良さは重要だが、関係性を続けられる理由を相性に収斂させて考えようとすると、組織が個人プレイの集合体になってしまうという声もありました。

利他とビジネスの結び付けは難しいものですが、5バリューアセットはチームプレイ(内部での利他)を重要視する会社であり、あらゆるお客様に満足していただけること(外に向けての利他)を目指し、各自がどんなお客様にも対応できるような力を付けていくことこそが、会社の発展に繋がるのではないかとまとめられました。

講演の感想などでは、利他は考えてやるものではないというシンプルな命題が特に印象に残ったほか、「思いがけず」/身が動くという利他の本質は、ボランティアやクラウドファンディングの例でみたように実践の反復によって発現するものなので、身が動くもの/無意識な行動規範として5バリューの理念を内面化するためにも日々の自己鍛錬や、非常に重要になるという意見もありました。

受け取る側の感謝(利他の起動)と自己鍛錬

利他とビジネスをダイレクトに結びつけようとすると、やはり利己的な側面が強く表れてしまいますが、業務や経験の中で過去からやってきたものを受け取っていることに気づき、利他の主体を浮かび上がらせることは可能だと思います(中島先生のお話でいえば、死者や弔いに関連)。

ある発表者は、当時勤めていた会社で債券部配属された際、難解な債券の仕組みの解説や、評価額を左右する構成要因についての理解や理論武装の方法に関する指導を先輩から受け、商品についてもアドバイスや相談ができるメンバーのおかげで手堅い商品知識を身に付けることができ、それを活かしたアドバイスで担当顧客から感謝の言葉を寄せてもらうことも多かったそうです。

先輩の指導(知識や経験の贈与)が長年に渡って仕事を継続できる源であり、商品知識を教授してくれるメンバーの協力という利他の連鎖(内部の関係におけるチームワーク的な利他)によってビジネスが支えられているという点に着目すると、総体として利己的にみえるビジネスも利他と無縁ではないといえます。

ビジネスであることを考えると利他から遠くなってしまいますが、利他においては相手の立場から見た受け取り方が重要であり、お客様に提案やアドバイスを受け取ってもらう、喜んでもらう、あるいは潜在力を引き出すことによって利他が成立することを考えると、ビジネスという営利的な行動にも利他(外部の関係性における利他)の要素は含まれているといえるでしょう。

金融商品についての知識は多くの場合、担当者とお客様との間で不均衡を生じやすいため、営業側の思いを単純に押し付けるのではなく、お客様が何について困っているのか、どういう課題を持っているのかを聞きとり、それらを解決するお手伝いをするという姿勢が求められます。

問題解決には商品知識や理論武装が必要となり、そのための勉強や研鑽を惜しまないという姿勢はお客様の課題解決に結びつき、それが信頼の形成へと繋がっていきます。知識の獲得や理論武装、研鑽を積むためには様々な人の力を借りる必要があり、円滑な人間交際や協力関係のためには人間としての謙虚さや立ち振る舞い(人としての厚み)も求められます。

中島先生のお話やグループディスカッションを通じては、お客様の問題解決に手助けする我々サイドが常に、研鑽を積んでいくことが利他に繋がるのではないかという気づきがあったそうです。




利他の構造(1)
中島岳志『思いがけず利他』



鈴木 真吾

鈴木 真吾

2023年3月よりインハウスクリエイターとして写真・映像撮影および編集、グラフィックデザイン、DTPなどを担当。専攻は文化社会学、表象文化論等。

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