保守的態度とは何か(2)
5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。
当社ではお客様と社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。
以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。
フロムとスピノザ
前回まとめた範囲では、オルテガ『大衆の反逆』の復習から保守思想の成り立ちを振り返り、バークからオルテガに繋がる線を確認しました。
全3回の中盤にあたる今回は、エーリッヒ・フロム『愛するということ』(The Art of Living, 1956 )と、彼がルーツとして参照してきた17世紀の哲学者スピノザの思想を紹介しながら展開されます。
エーリッヒ・フロム『愛するということ』
『愛するということ』は、ナチズムが台頭した要因を社会心理学的に分析した『自由からの逃走』(Escape from Freedom, 1941)で知られるエーリッヒ・フロムによる、感情ではなく技術としての「愛」を類型化し、自ら「与える」ことが「愛」の作法であると分析した著作です。
後に繰り返しますが、「与える」ものは自分の中に息づくもので、物質的なものではなく、「与える」ことで減少するものでもありませんそれらは、喜びや悲しみといった感情や知識、ユーモアなど様々なものであり、「命」とも称されます。
どの時代においても人間は孤立を克服するという課題に対峙しており、様々な解決策が模索されてきました。フロムは解決策の例として「祝祭的興奮状態」(祝祭・儀礼)、「集団への同調」(伝統・慣習・制度・信仰による結束)、「創造的活動」(手仕事、制作活動)などをあげますが、それらは近代になるに連れて姿を消し、代替物(アルコールやドラッグなどへの依存、「みんな」への同調、断片的な機械労働)に取って代わられていきますが、他者との一体感を保持し、孤独を克服するために「愛」があると述べます。
「愛」はさらに「成熟した大人の愛」と「未成熟な大衆による愛」という2つに分類されます。前者は相手に自立性・自由を与える愛(ヨコの関係で「善」に属するもの)、後者は相手の能動性を奪う「共棲的依存」や指導者への隷従、権威主義的なコミュニケーションなど、「悪」に属するものを含むタテの関係で、その関係性が国家レベルに肥大化していくとファシズムや全体主義へと転化していきます。
「善」と「悪」に分けられる「大人の愛」と「大衆による愛」ですが、フロムは『悪について』(The Heart of Man: Its Genius for Good and Evil, 1971 )で、「善」は私たちの存在を自分たちの本質(=自然)に近づけるもので、「悪」は存在を本質から引き離すものであると定義し、自身の「善悪」の考え方はスピノザに依拠していると述べます。
スピノザ・ルネサンス
浜崎先生によれば、ここ数年間でスピノザを扱った分厚い新書が相次いで登場しており、単行本ではなく新書で刊行されるということは、スピノザが市場に求められている=売れるということを示唆しているそうです。
スピノザの主著『エチカ』(Ethica, 1677 )は、宗教的な教義/神の判断によって定められていた「善い」「悪い」の区別を「喜び」や「悲しみ」といった感情に結び付けるほか、神と自然を同一なものとみなす「汎神論」、精神、知性、自由についてなど、幅広いテーマを扱い、人間の幸福の確立を主題のひとつとして扱う倫理学です。
浜崎先生の講演では主に「自己保存の努力(コナトゥス)」や「喜び」「悲しみ」といった感情のもたらす効果に関する議論が中心に紹介されます。
スピノザは能動性を高める「喜び」として「善」を、「悪」は受動性を高める「悲しみ」として定義します。しかし、世界=自然という全体(第1回で詳述した保守思想に近いものに)において「善悪」は明確に定められておらず、人間の判断・審級によって定義されるものとされています。
人は結合(様々な事象とのつながりや人間関係など)が強固になるに連れて喜びを感じ能動性が強まる(=善)一方、結合が解体されていくにつれて悲しみを感じ受動性を増大させていく(=悪)とスピノザはいいます。
前述のように物事の善/悪は自然=神の中において明確に分けられず、結合の仕方や状況によって能動性を促す「糧」=善/受動性を促す「毒」=悪のどちらにも転化しうるものであり、何をもって善し悪しを判断するのかという問題が残ります。
カップリングの善し悪し
浜崎先生は國分功一朗氏の用いる風邪薬の例を紹介し、善悪の例を取り上げます。
風邪薬それ自体は「善悪」に分類されていません。風邪の症状がある際に風邪薬を投与すると、症状を和らげてくれる=能動性があがる=嬉しい/善いカップリングとなり、健康な状態で服用すると単に喉が渇くだけなので、不快/受動性の低下=悪いカップリングと認識されるように、対象とのカップリングは様々な内外的要因に左右されるため、どのようなカップリングによって個々人の能動・受動が誘発されるかについては、「出会いの秩序(エチカ)」を、経験知を通じて学ぶことが必要とされます。
喜びを促す結合は「糧」であり、悲しみを促す結合は「毒」であるとされます。ですが、結合する対象は絶対・超越的な審級で定められてはいません。結合する自分自身の情動の省察を通じて「毒」と「糧」を見分ける必要があり、スピノザはそのような選別能力を理性(反省力)と呼びます。
善いカップリングを繰り返し、能動性を強化していくことが重要なものですが、悪循環と好循環のパターンが形成されてしまいます。
情動への反省がない場合(「出会いの秩序=エチカの無自覚」)は「糧」と「毒」の区別ができず、行き当たりばったりで一喜一憂することになってしまいます。が、受動性が高まり理性的な反省が困難になる悪循環とは逆に、何が「糧」か(例えば、適切な距離感で人間関係を形成するなど)を理解できている場合であれば、好循環を通じて能動性を高めながら理性的反省の加速が可能になります。いわば、何が自分にとっての「糧」になるのかを理解するために、善いカップリングを繰り返していく必要があります。
自身の力能(各個人の潜在能力や本性)を高めるべく「糧」の好循環を維持し、能動性を強化し続けるというのが理想モデルではありますが、好循環を維持するためにはどのようにすれば良いのかを、フロムに戻って検討してみましょう。
「善いカップリング」についての検討
さらなる「善いカップリング」を作り出す手段として「他者に与える愛」を考えるために、再び『愛するということ』に戻ります――冒頭で確認したように「愛」は〈与える〉という作法ですが、フロムは「愛」に対する3つの思い込み=勘違いを指摘します。
1: 「愛」を、愛される(being loved)問題として捉える
2: 「愛」を、それを向けるべき「対象」の問題として捉える(think of the “problem of love” as that of an “object”)
3: 「愛」を、「恋に落ちる」(falling in love)こととして捉える
3つの勘違いはそれぞれ
1:「愛」は受動的感情ではなく、〈与える〉という能動的な行為である
2: 「愛」は、「お買い得商品」を選ぶように対象を探す(seek a “bargain” of a romantic partner.)ことではなく、代替不可能な固有の文脈や関係性が重要となる
3:「愛」は受動性の問題ではなく、それを持続させるための技術や能動性が必要となる
と訂正され、「愛」は自らのなかに息づく生命/いのち(字義通りの意味ではなく、興味、理解、知識、ユーモア、喜び・悲しみなど)を与える/贈与することで、さらなる贈与が生まれる現象であるとされます。
フロムによれば「愛」は「与える」ことで「与えられる」という、能動的かつ循環的な関係性です。与えあう関係としては、教師と生徒、俳優と観客、精神分析医と患者といった例が出されています。また、そのほかにも日常の様々な関係性――弊社の業務に関連付けるなら、お客様に対して徹底的・恒久的に尽くすという「顧客重視(Client Focus)」の姿勢に対し、お客様から信頼を寄せて/与えていただくという関係を継続させていくことが、〈善いカップリング〉の理想像といえるかもしれません。
さらにフロムは「親子愛」、「友愛(兄弟愛)」、「母性愛」、「恋愛(異性愛)」、「自己愛」、「神への愛」などに、愛」を細分化していきますが、その基本にあるのは与えること=与えられることという、ギブから始まる能動的な行動の循環です。
ギブの実践と事例研究
今回は哲学的な内容が中心のため、個々の議論や指摘を具体例に落とし込みながら解釈していく必要があります。しかし、後半部では近年におけるケース・スタディが中心で、内容も非常にわかりやすいので、現代の事例を確認した後に今回登場した議論に立ち戻ると、特に「愛」に関する部分はより理解しやすくなると思います。