21世紀に「貴族」であるとは?
5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。
当社ではお客様と社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。
以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。
2023年3月23日に京都大学大学院 人間・環境学科研究科准教授の柴山桂太先生をお迎えし、「21世紀に『貴族』であるとは?」という演題で、『大衆の反逆』についての講義を、東海東京証券日本橋オフィスで行って頂きました。
本記事では『大衆の反逆』の紹介や、講義内容の一部について、補足・解説などを記載していきます。また、記事の最後にアーカイブ動画へのリンクがありますので、よろしければそちらも合わせてご覧下さい。
オルテガ『大衆の反逆』
1920年代のスペイン・欧州の状況を念頭に書かれた『大衆の反逆』(La rebelión de las masas, 1930)は、時代を超える普遍性を持つ「古典」として、現在の状況を把握・理解するための手がかりとして、今なお広く読み継がれています。
当時はいわゆる大戦間期(1919-1939)であり、相対的安定期と呼ばれる1924年~29年頃に生じた技術発展や、政治経済・生活様式の変化に伴う精神性の変化に対するオルテガの戸惑いや不安などが、辛辣な社会批判の中に窺えます。
そのタイトルから、近現代に現れた「大衆」なる存在が、対となる「選ばれた人間」「高貴な人」「貴族」などの特権階級層を脅かす内容、あるいはエリート主義的な思想と誤解されやすい本書ですが、「大衆」/「選ばれた人間」という区分は精神性や心的態度に関わるものであり、政治・社会的階級ではありません。
演題にある「貴族」というカテゴライズもまた精神性に関わるものであり、「選ばれた人間」/「貴族」的な意識を非常に強く持つ人でも「大衆」性を持ち合わせ、その発露具合や置かれた状況よっては、「大衆」に転化する可能性があるという点に留意する必要があります。
※オルテガや『大衆の反逆』については、以下の記事もご参照ください
「大衆」とは
オルテガは「大衆」を特定の社会階層や集団ではなく心的な態度として捉え、「善い意味でも悪い意味でも、自分自身の特殊な価値を認めようとはせず、『すべての人』と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。」(『大衆の反逆』, 神吉敬三 訳, 筑摩書房, 1995, 17頁)と述べます。
「大衆」の特徴としては、他者との同調、進歩・努力の放棄、過去や歴史の軽視、万能感/自己完結、制限のない欲求などがあげられます。
ニュースで見かける様々な事例・典型例としては、歴史的な名画を評定にしたエコ・テロリストの抗議活動や、センシティブな話題に関わるネットミーム(近年では映画『バービー』と『オッペンハイマー』を組み合わせた「バーベンハイマー」など)の受容・流行などに、「大衆」の典型的な特徴が見いだせるでしょう。
『大衆の反逆』の主題
豊かな経済成長、教育水準の上昇、民主的な政治体制の定着という理想が達成された現代ですが、その理想が達成されたことによって新たな問題が生じます。
自己を失い(他者と同じであることを求める)、過去を蔑ろにし(「忘恩」)、義務の意識を持たず、互いに足を引っ張りあう「大衆」が社会権力を握る「超デモクラシー(hyper democracy)」という問題を抱える時代における課題の提示や、解決方法の模索は本書の主題のひとつです。
「大衆」や「超デモクラシー」といった概念を手掛かりとして、私たちを取り巻く様々な事象を分析する、いわば自分自身も含めた「大衆」を相対的にとらえるための参考書として、『大衆の反逆』が活用できるでしょう。
大衆社会の中で「貴族」であること
オルテガは大衆社会の特徴について様々な例をあげますが、下記は柴山先生がまとめた直したものになります。
・聞く耳をもたない: 外側からの声に従わない。
・単純化: わかりやすさ、シンプル、無垢なものを好む。
・科学より技術: 有用な技術にのみ関心を持ち、その基礎となる無用な科学的探求を軽視。
・過去への忘恩: 現在の自分たちの環境を当然のものとみなし、先人の努力や過去の歴史によって築かれたものだと考えない。
・「甘やかされた子供」: 願望や欲求が社会的に実現できないことに耐えられない。
・直接行動の指向: 事態は切迫しており、議論の余地はない。直接行動で願望・欲求を叶えようとする。
また、『大衆の反逆』では専門家(特に科学者)の堕落、あるいは「大衆」化も厳しく批判されています。本来、専門家は様々な分野に精通した総合的知識人であるべきだが、自分の専門分野に閉じこもる偏頗な専門家になるだけでなく、専門外の分野についても発言する資格があると盲信し、別分野、たとえば政治などにも介入していく例なども「大衆」の典型といわれます。
「貴族」であることは、すなわち「大衆」の典型例とは真逆の精神性を保持できるよう、自身の中にある潜在的な「大衆」性を自覚しつつも、自己啓発や様々な広範囲な分野の知識を渉猟し、「大衆」や「平均人」ではなく〈個人〉であり続けること、とも言えるでしょう。
※オルテガや『大衆の反逆』については、以下の記事もご参照ください