田内学『きみのお金は誰のため ボスが教えてくれた「お金の謎」と「社会の仕組み」』(東洋経済、2023年10月刊)は、日経新聞の「ベストセラーの裏側」(12月2日付)で紹介されるほか、12月中旬時点でAmazonの一般・投資読み物のランキング1位を維持し、日経新聞広告が掲載されるほか、12月17日の読売新聞にも一面広告が掲載され、大手書店でも話題書籍のコーナーに面出しで配置されるなど、大きな注目を集めている〈経済教養小説〉です。
金融教育家の肩書を持つ著者の田内学さんは、2003年にゴールドマン・サックス証券に入社後2019年までトレーディング業務に従事され、退職後は執筆活動や様々な作品の監修協力、学生・社会人向けの講演活動などで精力的に活動されています。
本書は前作にあたる『お金の向こうに人がいる――元ゴールドマン・サックス金利トレーダーが書いた 予備知識のいらない経済新入門』(2021, ダイヤモンド社)とは異なり対話が中心となる小説形式なので、ジュニア層にも読みやすい平易(かつ核心的)な内容ではありますが、前作で提示された観点をより具体的に掘り下げて、身近なシチュエーションから経済について考えられる内容です。
どちらの書籍も経済や金融を扱っていますが、有識者や当該分野に関心のある層に向けた、儲けるための指南書やハウトゥー本ではなく、経済やお金、そして投資について<考える>本という珍しい内容で、専門的な内容をわかりやすく、身近なものとして伝えたいという趣旨の本です。
お金を稼ぐ・増やす、FIREを目指すといった実用志向ではなく、道徳哲学(本書の中で道徳ではなく「経済」の話であることが強調されます)を想起させるようなタイトルと装丁である本書が10万を超える話題の本となる背景には、老後2,000万円問題、「貯蓄から投資へ」というスローガンや、高等学校家庭科への金融教育の義務化、新NISA、iDeco、2023年3月のシリコンバレー銀行から続いた一連の銀行破綻など、お金にまつわる様々な言説や情報がこれまで以上に顕在化している近年の状況が影響しているかもしれません。
貯蓄から投資へ……その先は?
「貯蓄から投資へ」という政府のスローガンは貯蓄された国内の銀行預金が「投資」にまわれば日本経済の回復が期待できるという主張を基盤にしていますが、投資について取り上げる本書の第4章では、投資の目的はお金を増やすことだけではなく、社会の不便さの解消や新規イノベーションに取り組む若い人たち(=投資される側)を支援して、どんな社会を目指すのかという選択決定でもあることが示唆されます。
また、田内さんは「日本の『お金の教育』が子供に超悪影響な深い ワケ 『投資される側になる』発想の欠如が国を傾ける」(「東洋経済オンライン」、2023年11月11日)では、2022年から高校の家庭科で始まった金融教育が、指導要領を読むと投資について書かれている箇所はごく僅かで、金融教育=投資教育という錯覚が金融関係者・教育者に広まっている状況や、「投資する側」に偏った教育になっていることが指摘されています。
個人レベルでも国レベルでも「投資」という単語をよく聞くようになった。「貯蓄から投資へ」は、国民の資産所得倍増を目指す政府のスローガンになっている。
銀行に眠っている預金が投資に回れば、日本経済はいっきに回復すると主張する人は多い。そして、その実現のために投資教育をすすめてマネーリテラシーを底上げする必要があるという。
投資教育で日本が回復するなら嬉しい話だが、残念ながら実態はまったく異なる。その主張をする人たちこそ、マネーリテラシーを上げるべきだ。彼らの考える投資教育とは、「投資をする側」だけの偏った教育だ。この教育が日本の凋落をさらに加速させることは必至だ。
投資に対する錯覚を諫めると同時に、田内さんは「投資される側」になるための教育も重要と説きます。『きみのお金は誰のため』では、未来や今後についての話も数多く登場し、選択して消費することも未来の選ぶための行動ということが示唆されるなど、田内さんの展開する教育哲学も数多く織り込まれています。
業界に携わる人は、「資本主義ど真ん中の会社」(『お金の向こうに人がいる』、7頁)であるゴールドマン・サックス出身のトレーダー、いわばお金のプロフェッショナルによる著作という点で訴求力を持つ本であります。また、営業職であればお客様に本書をご紹介し、共通の話題として活用するほか、業務や業界についての知見を深めてもらうといった活用方法があるかもしれませんし、様々な立場で金融に携わる方々にも、改めてお金について改めて知る・学ぶための参考あるいは精神修養のため書として強く勧めたいと思います。
本書の構成と登場人物
主な登場人物は、とんかつ屋の次男で、「お金持ちはずるい」「自分も年収の高い仕事に就いてお金を儲けたい」と考える中学2年生も優斗、外資系投資銀行の東京支店に勤務し為替や国債の取引を担当する七海、経済の研究をしながら投資を行う「お金の向こう研究所」の所長であり投資によって潤沢な資産を持つボスの3名で、ボスの投げかけた問いに対し優斗・七海が各々の立場からの答えを提示し、ボスがフィードバックや解説を行うというのが主な構成で、三人の異なる人物による議論という物語構造は中江兆民『三酔人経綸問答』(1887)を彷彿とさせます。
『三酔人~』は登場人物の洋学紳士(紳士君)、東洋豪傑(豪傑君)、南海先生それぞれに兆民の考えが反映されているという解釈があり、『君のお金は~』の登場人物3名も、田内さんの考えが反映されているだけでなく、その来歴も投影されています。
※田内さんの実家はそば家を営み、店舗の2F部分を優斗と同じく住まいとして使っており、GSのトレーダーとして、七海のように大規模なお金をグローバルに動かし、現実世界でもお金の向こう研究所の代表を務める(ボス)など、登場人物に田内さんとの共通点が絡めてあります
本書は全6章構成で第1-3章が「お金の謎」で、「格差の謎: 退治する悪党は存在しない」(4章)、「社会の謎: 未来には贈与しかできない」(5章)、「最後の謎: ぼくたちはひとりじゃない」(6章)と続く本書のプロローグでは「1.お金自体には価値はない」「2.お金で解決できる問題はない」「3.みんなでお金を貯めても意味がない」という、3つの謎(それぞれ第1-3章のサブタイトルに相当)が提示され、それぞれの問いについては、第1-3章で複数の答えが提示されます。
回答の一例としては、ミクロ視点とマクロな視点ではお金の持つ力や価値の見え方が大きく異なること、問題を解決するのはお金それ自体ではなくお金を受け取る人であること、お金は増えるものではなく移動する/奪い合うものといったもので、いずれも日常生活ではあまり考えたことのない視点であり、お金は増えるものではなく移動するものという指摘は非常に印象深いものでした。
財布の外側と「人間交際」
本書に通底する主題は前作『お金の向こうに人がいる』と同様、他者あるいは社会、『お金の向こう~』の言葉を借りれば「あなたの財布の外側」に意識を向けることにあります。
第3章まではお金は万能だという錯覚を正すための思考の準備体操といった趣で、第4章以降はお金を増やことを主目的にした投機とは異なる投資、消費と選択、労働による価値の創出、贈与など、社会を形成する様々な諸部分が取り上げられます。
※特に贈与については、5章のサブタイトルにも署名が引用され、巻末の参考文献にあげられている近松悠太さんの『世界は贈与でできている 資本主義の「すきま」を埋める倫理学』(ニューズピックス, 2020)も合わせて読まれることをお勧めします。
明治時代にはsocietyの訳語に相当するものとして「社会」という単語はなく、福沢諭吉はsocietyに「人間交際」という訳語を採用しました。お金の向こう/財布の外側には、社会があり、様々な人との繋がり・支え合いがお金を介して実現していますが、その「社会」を福沢の訳語である「人間交際」として読み替えてみると、また違った深みが見えてくるでしょう。
ウェルスマネジメントにおいても、お客様に運用をご提案するうえで、数字の増減や市場状況に留まらず、お金が繋いでいく「人間交際」の広がりや、他者と支え合う社会を実現するためには、どのような視点が必要かを考えることも重要になると考えますので、現在ウェルスマネジメントに携わる方、ならびに将来的に志すことを考える方にも本書を強く勧めたく思います。