真の指導者とは? 静かな革命家 北条泰時に学ぶ(1)
5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。
当社ではお客様と社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。
以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。
2024年9月6日、第6回のオフサイトセミナーを開催しました。第6回では、第1回でオルテガ『大衆の反逆』と「貴族」の精神についてお話いただいた柴山桂太先生(京都大学大学院人間・環境学研究科准教授)に、「真の指導者とは? 静かな革命家 北条泰時に学ぶ」という演題でご講演をいただきました。
第1回ではオルテガの『大衆の反逆』をテクストとして、大衆社会における貴族的な精神性のあり方・持ち方や今日的な状況への応用などを中心にお話いただきましたが、今回は日本中世時代の個人に焦点を当て、指導者に求められる資質や、日本的なリーダー像の理想形を体現した人物として名高い北条泰時(1183-1242)などが取り上げられます。
指導者の条件-徳と品格-
柴山先生が編集委員に名を連ねる思想・言論誌『表現者クライテリオン』の最新号(2024年9月)では「指導者の条件」という特集が組まれ、今回のテーマである北条泰時についての柴山先生の論考「権力道徳の体現者、北条泰時」も掲載されています。
2024年は世界的な選挙イヤーで、11月の米国大統領選のほか各国で重要な選挙が行われており、国内では自民党総裁選やその後の総選挙についての報道が連日加熱しています。柴山先生は近年の国内における政治論議は、政策論・政策立案(今回の総裁選では金融所得への課税関連や夫婦別姓など)に終始しがちなため、指導者に求められる能力は政策立案なのかを改めて考える必要があると指摘されます。この点は政治家を評価する我々のリテラシーにも関連しており、目先に掲げる政策立案よりもその人のリーダー・指導者的な資質や、「徳」を詳細に観察し、議論するための知識を身に付けることが求められているともいえるでしょう。
偉大な総理大臣と呼ばれた人(柴山先生があげた例としては、戦後に限っても吉田茂、田中角栄、池田勇人)は、細かな政策で支持を集めるというよりも、派閥の信任獲得や政治の外部の世界において支持を集め、行動や人柄で信頼を得るリーダーとしての資質を持つ人物も多くいましたが、主に昭和期に限られていました。
人間的な魅力は指導者が持つべき前提の資質であるはずが、平成期以降ではそういった前提が見失われていったと言われており、柴山先生はその要因として、政治家が出演して政策論について語るテレビの討論番組(討論番組の嚆矢である『朝まで生テレビ』は1987年4月から放送開始)や、制度改革などを挙げられます。
リクルート事件などの汚職事件や金銭スキャンダルの露呈を受けて、政治家の道徳や価値判断を問うのではなく、政治家が私腹を肥やす抜け穴を埋めることを目的とした制度改革(政治資金法改正など)に関心や対処が向かい、望ましい政治家像について議論するのではなく、制度を直すことで政治を良くしよう(二大政党や小選挙区制による政治交替)という方向に意識が向いてしまう、というようなことが過去30年近く続いてきました。その結果、政治家は国民の前で政策を良く語るようになりました。とはいえ、自民党総裁選で耳目を集める課税政策などは、総理大臣(候補者)が中心に掲げるには中心些末なもので、コアな部分に関わる重要な政策を掲げたとしても、人間的な魅力と指導力がなければ人は政治家についてこないばかりか、信念を賭して困難を乗り越えていくような、その人を中心に組織される強烈な人間的エネルギーがなければ政策の実行は困難なものとなります。
日本史上最高の名君
政治学の根本に立ち返った『クライテリオン』の特集では理想的な指導者、尊敬する人物についての論考が掲載されており、テーマに選ばれた主な人物として乃木希典、田中角栄、李登輝、そのほかにも個人ではなく役職としての現場指揮官/小隊長(執筆者の小幡 敏さんは元陸上自衛官)などが名を連ねます。選ばれた人物は近現代が多いですが、柴山先生が取り上げたのは今回のテーマである鎌倉幕府第3代執権の北条泰時です。 北条泰時は戦前においては有名だったそうですが、戦後に入るとその存在を忘却され、歴史教科書では御成敗式目を制定した人物として紹介される程度に留まります。しかし、南北朝以降に登場する歴史家たちが、こぞって日本史上最大の名君と称する人物でもあります。特に泰時を高く評価したのが南北朝時代の歴史家で『神皇正統記』(初版発行1341年) を記した北畠親房でした。
2022年放送の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』は平安末期~鎌倉初期が舞台であり、その主人公は泰時の父である北条義時のため、泰時は物語の後半に僅かに登場する程度です。また、アニメ版も話題になった松井優征のマンガ『逃げ上手の若君』は、鎌倉幕府の滅亡(1333年)以降の時代が舞台であり、主人公の北条時行は泰時直系の子孫(父親は14代執権の高時)にあたります。『鎌倉殿』と『逃げ上手』の間の時代こそが、泰時が政治的に活躍した時代でもあります。
近年の歴史区分では、古代(大和~平安)、中世(鎌倉~安土桃山)、近世(江戸~大政奉還)、近代であり、泰時の時代は中世にあたります。古代から中世にかけての大きな転換点が「承久の乱」(1211)であり、義時が38歳で初めて表舞台に立ったのも、「承久の乱」でした。
「承久の乱」は、朝廷側が武士に奪われた政治的実権を取り戻すために起こした、朝廷軍と鎌倉方(武士集団)の戦いで、朝敵とされた側が史上初めて朝廷を破った出来事です。結果、天皇/朝廷の権威は失墜し、後鳥羽上皇は隠岐に島流しにされ、京都には朝廷に監視を目的とした六波羅探題が設置されました。
武士が朝廷の権威を奪取した矢先に義時が亡くなり、長男の泰時(当時41歳)が3代執権として跡を継ぎますが、国作りをどのように行うべきかという課題が残されてしまい、そこから泰時のキャリアが始まります。
3代執権となった泰時の実績は同時代においてすでに名君と称されており、『吾妻鏡』、『沙石集』、『明恵上人伝記』などでも、名君として描かれてきました。さらに、朝廷側(南朝 / 後醍醐天皇 / 貴族 )と室町幕府(北朝 / 足利尊氏 / 武士)が対立した南北朝時代に、朝廷側で活動していた歴史家の北畠親房が記した『神皇正統記』(後醍醐側の正当性を主張)においても、敵対する武士であるにもかかわらず泰時についての評価は非常に高く、それ以降も各時代の歴史家によって高い評価を受け続けたそうです。
戦後の評価も同様で、柴山先生が例として引いたものとしては、「日本最初のステイツマン」(梅棹忠夫)、「日本的革命の遂行者」「日本人の理想像を具現化した存在」(山本七平)、「天才的な道徳家」(上横手雅敬)という評価です。
指導者が備える資質と「徳」
指導者のありかたや資質、必要な能力ついては東西で古くから議論されてきました。その理由として、人間は集団を形成して社会生活を営むため集団を円滑に動かすための方法論が求められた、と柴山先生は指摘されます。集団をまとめるにはよき指導者と良き法(ルール)の規定が必要とされ、政治学はよき指導者、よき法を研究するための学問として発展してきました。
西洋・東洋においてもよき指導者が持つべきものとして重要視されるのが「徳」(virtue)です。「徳」(virtue)は、他者を惹きつける個人の力や徳を指すほか、名演奏家・超絶技巧者、名人を指すヴィルトゥオーソの語源でもあるラテン語のvirtusに由来します。また、マキャヴェリ『君主論』(1532)では、人間を翻弄する運命(フォルトゥーナ)に対抗するものとして「徳」の意味も含むヴィルトゥス(徳、力、英雄的な振る舞いなど)という用語が登場するなど、非常に多義的な意味を含みますが、一個人に固有の優れた力や資質であるという点は共通しています。
「徳」とは何かを解明するためにヨーロッパで始まった政治学も嚆矢としては、プラトンによる四元徳、「智恵」(wisdom)「勇気」(fortitude)、「節度」(temperance)、「正義」(justice)がなければ、人はついていかないということを説きました。一方東洋では儒学における 五徳(仁・儀・礼・智・信)に「忠・勇・謙・寛」を合わせたものが「徳」とされ、君主、リーダー、家長など、集団の長や指導的立場にある人物が備えるべき資質と考えられてきました。
一方、日本にける徳や為政者(ステイツマン)の理想像は、論理・概念的な西洋や中国とは異なり、神器によって象徴されてきました。日本における「徳」に関する明確な定義付けを行ったのは、『神皇正統記』を記した北畠親房であり、親房によれば、古くから3つの「徳」が想定され、それらは三種の神器によって体現されています。特に重要なものは、曇りなく自分を映す(正直、無私) 鏡であり、勾玉は柔和、剣は智恵や力をそれぞれ表しています。また、鏡こそが日本人の為政者の持つべき「徳」の最も象徴的なものとされ、正直(心正しくあること)が一番重要と北畠は記し、正直(鏡)、慈悲(玉)、決断(剣)に3つを兼ね備えた日本の為政者の筆頭として、泰時の名を上げます。
柴山先生が資料を基にまとめた泰時に人物像は、「温厚で謙虚」「戦争では陣頭に立つが、戦争は好きではない」、「強い正義感」、「兄弟愛」、「他人を優先する『無私』の精神」、「無欲の姿勢」、「撫民政策」、「譲れない一線は守る」、「神仏への篤い信仰」といった特徴が並び、まさに聖人君子、利他の人、名君といった人物像です。
メンターや政局が泰時に与えた影響
泰時はメンターとして明恵上人を頼り、六波羅探題在任中にも明恵の住まう京都の高山寺を幾度となく訪問したそうです。明恵は和歌に長けるほか学徳にも優れ、泰時の政治思想や御成敗式目のベースとなった「道理」にも多大な影響を与えた人物として語り継がれています。
鳥獣戯画を所蔵することでも有名な高山寺の僧である明恵は、欲望を断ち切るために右耳を切り落としたという逸話や、19歳から最期まで見た夢を記録したり(河合隼雄『明恵 夢を生きる』などを参照)、和歌山の「苅磨(かるま)の島」に宛てた恋文を書いたりなど様々なエピソードがありますが、無私無欲で清廉な人物として知られています。
泰時が国を治めるために何が必要かを問えば「欲を捨てる」「無欲」であることを説き、泰時は、「自分が欲を捨てることはできるが、他の人は欲を捨てることはできないのでは?」と返すと、上に立つ者が欲を捨てれば周囲の者も感化されることで秩序が形成されると説き、泰時が明恵からの影響を度々口にしていたと記されているそうです。
明恵からの影響の部分を見ると、極めて道徳的かつ聖人のような君主というイメージになりますが、柴山先生が『クライテリオン』の論考で、泰時自身は無私・無欲の人でしたが、独裁や私欲を出すと兄弟間での権力闘争を引き起こす可能性があるほか、先代を知る実力者・有力者との関係を良好に保つための政治的な方策として、さらなる道徳的振る舞いを戦略的に身に付けてきました。
泰時は父であり第2代執権である北条義時の跡継ぎですが、初代の北条時政、2代目の義時は武将としても名を馳せていました。一方、戦を好まない泰時は武よりも文に長けた人物でありつつも、3代目という立場のため権力関係の基盤が脆弱で、独裁的な振る舞いを行うと兄弟・御家人間で争いが起きる危険があるため、道徳的に努める必要もありました。そういった点を踏まえたうえで、柴山先生は泰時を「真のリアリスト」と称し、泰時の道徳的な振る舞いは、単に善人的なものではなく、政治的戦略に裏打ちされた合理的なものであり、その2点が両立された政治家は日本史上ほかにいないと指摘されます。
後半:真の指導者とは? 静かな革命家 北条泰時に学ぶ(2) /( 10月15日 公開 )