5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。
当社ではお客さまと社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。
以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。
2026年9月4日、第12回オフサイト研修を開催しました。今回は第2回(「保守的態度とは何か」)、第4回(「西郷隆盛と動的宗教」)に続き、京都大学経営管理大学院特定准教授の浜崎洋介先生にお越しいただき「幸福とは何か?―福田恆存の人間観と幸福観」という演題でお話をいただきました。
前半部では福田恒存についてのお話や、代表作である『人間・この劇的なるもの』を中心に、福田の人間観についてのお話をいただきました。後半部では『私の幸福論』をメインにテクストとして扱い、『人間・この劇的なるもの』で提示されたテーマが、実践的なものとしてどのように展開されているかを、浜崎先生が抜粋した引用と合わせて確認していきます。
『私の幸福論』
『私の幸福論』は全17章からなり、特に重要となる章は、(1)「美醜について」、(2)「ふたたび美醜について」、(3)「自我について」、(4)「宿命について」、(5)「自由について」、(17)「幸福と快楽」と浜崎先生は指摘されます。その中でも「幸福と快楽」は他と異なったタイトルかつ原理論的な章であるため。浜崎先生が編集を担当した福田の評論集『保守とは何か』(2013, 文藝春秋)には本書から「幸福と快楽」を収録されたそうです。
『私の幸福論』の他の章は「幸福と快楽」で提示された原理論を実践にあてはめたもので、最終章である「快楽と幸福」を先に読むことも可能なため、『私の幸福論』に関するお話では最初に「快楽と幸福」ついての解説から進んでいきます。
同章では、「不快という事実」(フロイト的な「去勢」[欲望が抑圧されるプロセスの比喩]、欲望/リビドーに対する規制)を起点にして議論が進められます。不快/去勢とは、端的にいえば社会的な有用性に合わせて行動や欲望が他者・社会・超自我(super-ego)などから禁止・抑圧を受け、道徳や倫理規範に馴致させられる状態を指します。
わかりやすい例では乳幼児のトイレットトレーニングや食事のマナー、衛生観念や生活全般の規範などの訓育(ディシプリン)などがあり、福田は「心理的にも、生理的にも自分の欲望がふさがれている状態」と「不快という事実」を評します。
お話の中で「不快という事実」の例として紹介されたのは、自分の好きな相手が既婚者であるというケースです。社会の倫理規範は一夫一妻制であるため、禁止によって自分の能力(欲望)の発揮が阻害されてしまい、規範を構成する社会通念批判的に対峙した際、人は(1)「『常識』への隷従」/戦いの放棄・敗北主義・泣き寝入り、(2)「快楽主義(利己主義)」/快楽に操られた状態・一喜一憂・中毒性、(3)「エピキュリアニズム」/「真の快楽」のための快楽(利己心≒感情)の制御・「不動の心」「平静の心」という、不快に対する3種類の態度に派生するとされます(「快楽と幸福」では第4の態度として、科学的な根拠に基づいた「改良主義」もあげられています)。
戦いの放棄、思考停止や諦めを含む「『常識』への隷従」は、シンプルに諦めを抱く態度である一方、封建社会的な旧い社会通念に飲まれた人々と後ろ指を指す場合もあります。
「快楽主義」は眼前に現れる快楽に身を任せる人々で、快楽を操るのではなく、快楽に操られている状態や依存・中毒、いわば「酒を飲むのではなく、酒に飲まれているのであり、金を自由にするのではなく、金に自由にされている」(205頁)というような状態です。
浜崎先生自身の体験としては、『小林秀雄の「人生」論』(2021, NHK出版)という著作を上梓して賞を獲得したことで、やることを喪失したような状態となり、家にいる際はオンライン対戦型ゲーム(浜崎先生曰く、ドーパミンが非常に出やすい)に没頭する依存状態になってしまい、ソフトを奥さんの仕事場に隔離してもらうことで依存を脱したことなどがあったそうです。
質疑応答でも触れられますが、やるべきことが見いだせない・自己肯定感が得られない、孤立感があるという状態では、自己充足を満たせず常により多くを求めるという性質を持つドーパミンの中毒=「快楽主義」に陥りやすくなります。
そのほかの「快楽主義」の例として、近年ではニュースにも取りあげられる「ドパガキ」(SNSを中心に広まった用語で、「ドーパミン中毒のガキ」の略語)などもあげられます。「ドパガキ」はTikTokやYouTube Shortsなどの短尺動画を何時間も視聴してしまうケースや、手暇な際はスマートフォンでSNSをスクロールし続けるなど、視聴覚的な変化の大きいコンテンツから新しい刺激や快感を求め続けることで集中力が低下傾向にある若年層を揶揄したスラングです。
コンテンツの視聴は主にスマートフォンで行われ、周囲との隔絶・孤立状態で没頭することになるため (コンテンツ制作側も、ユーザーの好みに合わせ場面転換や動きの変化の激しい内容を重視) 、ドーパミンへの依存・中毒状態に陥りやすくなり、依存状態が誘発されてしまいます。
参考: 「『一瞬の退屈も我慢できない』SNS中毒の“ドパガキって”なんだ?」(2026年9月15日, ITmedia Mobile / YAHOOニュース)
理性的なエピキュリアニズム
行き当たりばったりで受動的な「快楽主義」では本当の「快楽」を得ることはできず、自由のように見えて、実際は不自由であるという逆説が生じてしまいますが、「快楽主義」を理性で抑制する戦略として、「エピキュリアニズム」(Epicureanism)があげられます。
「エピキュリアニズム」は日本語の直訳では「快楽主義」になりますが、欲望の追求や刹那的な浪費・蕩尽など、「快楽主義」という直訳から想起される一般的なイメージは「享楽主義」(Hedonism)に近いものでもあります。
エピクロスの哲学に影響を受けた思想・学派である「エピキュリアニズム」は「真の快楽」のために快楽を抑制するというスタンスで、「平静の心/不安のない状態」(アタラクシア)や「不動の心」(ストア派の重視したアパテイア)といった概念が重要なものとして位置づけられています。感情に流されない自己コントロール、単純な快楽に陥落されない賢さ、一種の精神主義といった特徴は、ビジネスパーソンにとっても参考になる部分が多いと浜崎先生は述べられます。
一方で福田は「快楽というものの限界が、問題になってきます。なるほど『賢』と『愚』との違いはあるかもしれませんが、『賢』といったところで、高が知れています。いったい、どんな賢者なら、『見通しをきかし、よく計算する』ことができましょうか。自然と人間の間の、他人と自分との間の、さらに自分のなかの無意識と意識との間の、さまざまな欲望の衝突に直面して、誰がすべてを見通し、これに決定的な裁きを付けることができるでしょうか。」(209 頁)と記します。
見通しのきかない不確実性に対し「科学」の道具化(自然科学と社会科学の力を借りた計算と見通し)によって快楽のコントロールが可能となり、それが政治家すると社会主義や福祉国家の思想へと繋がり、社会制度の改良や文化/伝統の改変といった改革主義・改良主義、進歩主義なども快楽主義の一パターンであると浜崎先生は述べられます。
快楽主義的進歩においては快楽の限界が問われ、快楽には限界があるとする福田は、それはどうしようもない人間の〈条件=宿命〉を自覚する瞬間であり、宿命の自覚は人間が成熟することであると捉え、次のようにも記します。
若い人たちの特徴は、大抵の場合、そのこと(引用注:人間的限界)にまだ気づいていないということにあります。なぜなら、かれらは未知数であり、社会人としては、いまだなにものも手に入れていないからです。これから手に入れようという希望に満ちている。したがって、欲望を満たしてくれる対象と、その障碍物とが分離しております。障碍物さえ除去すればいいという気持ちになりやすいのですが、それが手に入ってみると、また別の障害物が現れましょうし、それより困ることはあれほど夢中になって手に入れたものが、同時に障碍物であるということです。
年を取った世代の憂鬱というものは、この事実と深い関係があります。(……)その根底には、やはりどうしようもない、もっと人間的な憂鬱が、すなわち欲望の対象が同時にその障碍物であるという憂鬱が、ひそんでいるようにも思われます。
( 214-215頁)
欲望の対象である相手を獲得した瞬間に相手が自分を欲望充足の道具として自分をみなす(障碍物となる)という状況は、端的にいえば人間関係、より詳細にいえば結婚に多くみられ、結婚してみたものの折り合いをつけるために、妥協・迎合・我慢・規制・禁止などが欲望を規制・制御する障碍物として立ち表れ「こんなはずではなかった」と早々に離婚してしまうケースなどは、未成熟の象徴であると浜崎先生は述べられます。
私たちは、何かを夢見たり欲望を持ったりする際、常に現実(人間関係、お金、遺伝、容貌、土地、風土など)によって欲望が制御・牽制されることによって憂鬱を抱くことを繰り返しますが、それでも「快楽」を諦めない場合は、すべての障碍を除去するための近代的「自由主義」(積極的自己決定に基づく自己決定の推奨)の加速と、「孤立化」にたどり着くとされ、その一例として上野千鶴子の「おひとりさま」(『おひとりさまの老後』, 2007, 法研=文庫版: 2011, 文藝春秋)、宇野常寛の「ひとりあそび」(『ひとりあそびの教科書』, 2023, 河出書房)などを浜崎先生はあげられます。
快適な「孤立化」は現代でいえば新自由主義と密接に関わっており、自由競争を是とする利己的な精神、何にでもなれるという万能感、欠点は克服するものという認識に基づいた自己責任論なども、福田が論じるような「快楽主義」の極北といえるかもしれません、
快楽というものをつきつめていくと、どうしてもその極限には、相手を自己の欲望充足手段としか見なさぬ生き方に辿り着くのです。だから、私は快楽というものを、おのれ一人にしかかかわらぬ孤独な迷妄だというのです。そこには、自己と道具だけ、それ以外になにものもありません。快楽を標榜するかぎり、そして対象との摩擦や相克から生じる不快感の除去ということに専念するかぎり、自分一人の生活くらい理想的なものはありますまい。
(216頁)
加えて、「ユートピアの世界では、私たちは孤独になるばかりです、それは一口にいえば、摩擦のない清潔な貧しさとでもいうべきものでしょう。」(217 頁) と述べる福田は、アメリカを「貧しい」と評し、摩擦のない清潔な国ともいえるアメリカは「快楽」国家であると同時に「貧しい」国家であるとも述べています。
グローバリゼーションの進展が世界のアメリカナイゼーションと考えるならば、摩擦の解消や「快楽」の追求(新自由主義的資本主義)、合理性や快適さの追求(画一化の奨励、地域固有の文化・土着性といったノイズの排除)による「摩擦のない清潔」さが現代社会の特徴であり、それが孤独・孤立をより強く感じさせる状況を構築し、福田が論ずる「幸福」を実感することを困難にしている、とも考えられます。
生きがいと幸福
「快楽」追求の果てにある孤独は、生きがいの喪失であり、何かと関係し全体の中の適切な位置をどう用い、どのような人生を演じたいかという他者との関係がなければ、私たちが生きがいを持つ可能性はないと浜崎先生は指摘され、福田は「快楽」の追究が孤独に結びつくのであれば、違う生き方が見出されねばならないという問題提起を行います。
浜崎先生によれば「快楽」とは異なる生き方は「自分の流儀」であり、「流儀」は言い換えれば「筋」であり、損になるとしても「流儀に従うこと」を貫くことでもあります。また、福田は流儀について次のようにも記しています。
自分はこうしたいし、こういう流儀で生きてきたのだから、この道を採る―そういう生き方があるはずです。いわば自分の生活や行動に筋道をたてようとし、その為に過ちを犯しても「不幸」になっても、それはやむをえぬということです。そういう生き方は、私たちの親の世代までにはどんな平凡人のうちにも、わずかながら残っておりました。この自分の流儀と自分の欲望とが、人々に自信を与えていたのです。
(220頁)
筋筋道を立てるために過ちを犯すことや、「不幸」になってもやむを得ないとする、福田のいう「流儀」から想起させられるのはやはりギリシャ悲劇であり、その中でも国家の敵対者となった兄ポリュネイケスの亡骸の埋葬が法律(人倫的習俗)で禁じられたことに対し、人間の自然法(宗教的義務)として埋葬を行おうとして投獄されるも頑なに兄の埋葬を主張し統治者であるクレオン(アンティゴネの叔父)と対立し、主張を撤回することなく自死を決断するアンティゴネ(ソフォクレス『アンティゴネ』)が脳裏に浮かびます。
浜崎先生は福田の「筋」や「流儀」関する一文を踏まえて、孤独や自由意志を超えた偶然の「カップリング」(一例として両親、生まれた国、生まれた場所など)とそれを成り立たせている「流儀」への欲望を信じる事で人間は「私の一歩に自信」が持つと述べられます。
「幸福」の根幹をなすのは「流儀」や自己肯定感であり、「偶然性」や「被投性」によってカップリングされた状況や関係(あるいは宿命)を直視し、素直に受け入れることが自己肯定感の萌芽に繋がるというのが、「幸福」を感じるためのプロセスのひとつであるともいえます。
福田自身も、無意識の底で欲している「訳のわからぬなにものか」が「幸福の根源」でありその欲望がなくなったら生きる価値をなくしてしまう(222頁)と記しており、「なにものか」を欲する状態にある人物かつ、福田の人間観や幸福論の元型がハムレットに見いだせます。
幸福論の倫理
「快楽と幸福」で定位された主な理論を確認した後、浜崎先生は「では、どうやって私たちは『幸福』になれるのか」ということを考えるため、『私の幸福論』の「美醜について」、「ふたたび美醜について」、「自我について」、「宿命について」、「自由について」「青春について」「教養について」を参照し、A、B、C、Dかならなる具体的な〈歩き方(=倫理)〉を解説されます。
A: 快楽の限界(自分自身の宿命=見たくない現実)から目を背けないこと
「自我について」において、「私の幸福論をなぜ容貌の問題(「美醜について」)からはじめたかというと、私は、世のなかにはどうにもならないことがあるということをいいたかったからであります。(……)いろいろ努力したあげくに、自分の力ではもうだめだという限界点に達するのではなく、私たちは最初からこの限界点を背負って出発するのです。」(32-33頁)と記されるように、福田は弱点があること受け入れる・肯定することを薦めている一方、近年の教育では弱点は乗り越える・克服するものとして考えられる傾向があると浜崎先生は指摘されます。
弱点を隠そうとすると「歪み」「脆さ」「冷たさ」などが生じ、ニヒリズム(虚無主義)に落ち込む可能性があり、福田は「ふたたび美醜について」の中で、弱点を隠すために歪さを伴って育てられた長所(例として、「顔がまずい」という短所を隠すため「ひとに指一本さされぬよう、立派に生きよう」とする心がけなどは、「外見はしっかりして頼もしそうに見えますが、内側は案外もろいものです。また、そういう立派さには、他人にたいす不寛容の冷たさがあるのがつねです。」(23頁)と記します。
B: 自分の「弱点」を認める素直さで長所を伸ばす
自分の「弱点」をしっかりと見据えること(A)の次段階は、「こだわらぬ心」「とらわれぬ姿」(明るさ)といった姿勢が重視され、その明るい姿勢は「自由」と称されます。
マイナスの中にもプラスがあるという自慰的な考え方を持っても、マイナスが消え去ることはなく、やがてひがみや劣等感に繋がるため、自分の弱点を素直に認める事を福田は推奨し、「すなおな努力そのものが、いつのまにか、あなたの長所を形作っていくでしょう。むりに長所を引っ張りだそうとしなくても、現実の自己に甘んじるすなおさそのものが、隠れた長所をのびのびと芽生えさせる苗床となるでしょう。(「ふたたび美醜について」, 24頁)と記します
C: おのずから(自ずから)の素直さ
現実の自分(見たくないもの)に甘んじる姿勢(B)から、おのずから出てくる素直さは「自分の流儀(真の自由)」であり、「顧みて悔いのない生涯(幸福)」が立ち現れるため、不幸あるいはどうしようもない現実を素直に認めること(A)から、私たちは始めなければならないと浜崎先生は述べ、「自由について」からの一文を紹介されます。
私たちの欲しているのは、いわゆる幸福で自由のない生活ではなく、不幸でも、悲しくても、とにかく顧みて悔いのない生涯ということでありましょう。あとで顧みて、いくらでも書き換えのきくような一生を送りたくないものです。(……)どんな失敗をしても、どんな悪事を働いてもいいから、それが自分の意志ではないというような顔をしないこと、自分の過去を自分の宿命として認めること、それが真の自由を身につける第一歩です。自分の過去を否定し、それを間違いだといって憚らぬのは、結局、自分の出発点を失うことになり、未来の自分の葬り去ることになります。宿命を認めないことは、自由を棄てることになります。
(「自由について」, 56頁)
自分の過去の否定は自分の宿命=「現実」から目を背けるようなもので、それが自信のなさや、危機的な状況で決定的な一歩を踏み出させない(背骨の通らない優柔不断)というような状況を招きかねないという点も指摘されます。また、『ハムレット』でいえば、「このまま生きる(復讐を行わない)のか否か(復讐を行う)、それが問題だ」(To be, or not to be, that is the question )と葛藤する場面などが、宿命を受け入れず決断に足踏みしている例としてあげられます。
D:真の「教養人」とは
今回のお話の結論部(第7章「教養について」)にあたるのは真の「教養」やユーモアに関する部分です。欠点を認め(A)、現実と向き合い(B)、素直にそれを認める(C)ことで明るさが生じ、明るさのことを「ユーモア(資質)」と呼びユーモアを眺めることが「余裕」や「距離感」とされます。加えて、質疑応答でも、自分の劣等感や欠点などを機智に富んだ諧謔的なユーモアに転化させることで、対人関係の潤滑油として機能し、他者の関心や興味を惹く契機になる例が紹介されます。
『私の幸福論』における福田の観点は、宿命(偶然的に放り込まれた状況やカップリング)と向き合い、短所や欠点と感じる部分を超克するのではなく、素直に受け入れることや自己肯定感を高めることを説いており、『私の幸福論』の冒頭に配された「美醜について」と「ふたたび美醜について」は、福田の立ち位置を提示するためのイントロダクションを兼ねており、「私の考えには救いがあるとおもいます。私は『とらわれるな』といっているのです。醜、貧、不具、その他いっさい、もって生まれた弱点にとらわれずに、マイナスはマイナスと肯定して、のびのびと生きなさいと申し上げているのです」(「ふたたび美醜について」, 22頁)と記し、「教養について」ではユーモアについて次のように記しています。
そこには、自然に即したすなおさがあり、抵抗しながらも、代々受けつがれてきた教養を認める余裕があります。この余裕からユーモアというものが生じる。あるいは機智が生じる。そしてこういうユーモアや機智は、その人の教養を物語るものなのでもあります。今日、いろいろな意見や勢力の対立抗争を見てごらんなさい、どこにもユーモアや機智の潤滑油が見られない。教養が欠けている証拠ですが、そのために事を一層面倒にしているように思われます。
(「教養について」, 80-81頁)
意見や勢力の対立は現代においても同様で、浜崎先生はそこに潤滑油としてのユーモアや機智、つまりは「教養」の欠落を見出し、「この余裕がないと、自分の正義を振りかざして、他を責めるということになりかねません。うしろ指一本さされぬように身を持している、くそまじめな人が陥りがちな罠が、そこにあります。(……)私が学校教育や読書から得られる知識に重きを置かないのは、やはり同じ理由からです。
(80-81頁)
もちろん読書が必要な時もあると浜崎先生は補足されますが、そこに本質はなく、むしろユーモアや明るさといった「人生の流儀」にこそ「幸福」が宿るのではないかというまとめで、浜崎先生のお話は締められました。
福田恆存の人間観に触れる
今回のお話では『人間・この劇的なるもの』と『私の幸福論』の2冊を通じて、福田の人間観や幸福観を見てきました。前者では、人生論と『ハムレット』が前半・中半の主要題材で、後半部分保守思想に関連した部分となっており、後者はより実践や具体性に即した人生論という内容で、論じられた倫理を自身の体験や周囲の出来事に関連付けて考えることの重要性を感じました。
お話の中で登場した「カップリング」は、いわば偶然性ともいうべきもので、偶然に生じたカップリング(生まれた状況や、生得的な要素、他者や物事など)を、弱点として認め、おのずからの素直さで「自分の流儀」を確認すること、カップリングを宿命として受け入れることが、人間的な成熟や「幸福」へと繋がっていくと考えました。
お話の中で特に印象深かったのは、質疑応答で具体例のある話題になった「ユーモア」に関する部分で、すなおさや明るさを伴うユーモアは自身の欠点を諧謔的に捉える(自身について、距離を置いてみることができる)ことであり、人を惹きつける要素としても機能するという点でした。
質疑での事例では、不細工と言われていたリンカーンが自身の容姿に諧謔的に言及したジョーク(2面性があるという非難に対し「もし私に本当にもう一つの顔(二面性)があるなら、私はわざわざこんな不細工な顔をしてここに来るでしょうか?」と返したものなど)や、ユーモアで有名な政治家としてロナルド・レーガン元大統領などもあげられていました。
『私の幸福論』は、扱われるテーマとしては自己肯定感を高めるための啓発本という趣がありますが、刊行は60年代かつ保守論客・文芸批評家・劇作家・英文学者としても活躍していた福田恆存の著作であるため決してライトな内容ではありません。ですが、現在の時世においても通用するような人生訓や物の考え方が非常に多く、『ハムレット』で描かれた近代人の苦悩などと同じく古びない内容であると実感させられました。
『人間・この劇的なるもの』と『私の幸福論』という2冊の代表作や、福田恆存研究において「政治的保守論壇人」から「実存的思想家」として福田を再評価した浜崎先生のお話を通じて感じたのは、赴任先の中学校で生真面目に徹しすぎて辞職に至った話や、防空壕に本や文房具を避難させたエピソードなどにユーモラスで愚直な職人気質などから、「知行合一」(知識と行為は一体で実行を伴うべきという陽明学の命題)を徹底した人という印象を強く抱きました。
質疑応答
Q: 海外では演説の際に上手なユーモアを交える傾向が強い印象があり、ユーモアを戦略的におり込んでいると感じている。それに関連したエピソードで思いつくものがあれば伺いたい。
A: ユーモアという言葉の意味が、日本では正確に理解されていないかもしれない。ユーモアは自分との距離であり、外国人がユーモアを使う理由は、敵対する人間の多い厳しい政治環境に置かれていることに起因すると考える。
厳しい政治環境では、自分の意見と相手の意見だけをぶつけ合うと場がぎくしゃくしてしまうため、潤滑油としてのユーモアが必要になる。リンカーンのユーモアなどが特に有名で、自信の容姿を諧謔的に用いたときに自分に対して距離を持っているということが周囲に伝わり、その距離の中に笑いや人の意見が入りこむ余白が作られ、人と人との関係を円滑にしていく。
「こんな私でよければ」というニュアンスで自分を馬鹿にしたり、カリカチュアライズすることで、自分の劣等感はユーモアに転嫁させられうる最大の要素にすることができる。文章や喋り方、内容にユーモアが出ることで、この人と話してみたいというように人の関心を惹きつける契機になるので、外国人はユーモアを重視していると考えられる。
距離感があるがゆえに関係性を作りやすいが、日本人は距離が縮まっていることが仲の良さと考えがちだが、距離があるからこそ友好関係を築く契機になりやすい考え方もある。
Q: 本書を読んで、自分の考える「幸福」という言葉の再定義が必要と考えた。偶然的に投げ込まれた状況・環境を宿命として意識しながら、自分らしく生きていくことのプロセスが福田の言う「幸福」と解釈した。
それを踏まえて、「幸福」を感じる瞬間があるのかという疑問を持った。刹那的に感じるべき「幸福」に、人生の終わり頃まで気が付かないというケースもありえるか?
A:「幸福」とは? と聞かれたとき、福田の議論を参照にしつつ今回のような長尺ではなく手短に答える際は、脳内物質と「幸福」の関係性で説明することが多い。
「幸福」に関する主な脳内物質は、セロトニン、オキシトシン、ドーパミンの3種がある。セロトニンは、天気のいい日に風に当たって歩いている時など、心地よさを感じたり、健康である時に気づくようなもので、オキシトシンは良好な人間関係やコミュニケーションを通じて分泌され、その2つには中毒性がなく、その場で満たされ充足する。
オキシトシンは人間関係と同様に壊れやすい物質で、近現代では孤独や孤立化(「おひとりさま」や「ひとり遊び」)に陥りやすい社会であり、オキシトシンの代替として何かを実現した時に分泌されるドーパミンが選ばれる。また、ドーパミンは依存性が高く、セロトニンやオキシトシンに目が向かず充足感を持てなくなるため、さらにドーパミンを求める悪循環が生じるという構造が中毒と呼ばれる。
「快楽」はドーパミンであり、それを追っていると一見自由になっているようにみえるが不自由な状態に陥っているという状態を福田は論じており、自己肯定感を見定め状況や劣等感を素直に認めることでセロトニンやオキシトシンが生じるので、その両者を基礎にしつつ時々ドーパミンを狙うことを意識すると良い。
セロトニンやオキシトシンの出し方に生き方や、その人の流儀が出るが、壊してしまった瞬間に色々なものが零れ落ちてしまうので、そうならないように守ることが重要になる。
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