日本の食糧問題や米の生産・消費に関する書籍は近年も多く刊行されており、比較的新しいものとしては2024年から25年にかけて起こった米価格の高騰や備蓄米などの問題、いわゆる「令和の米騒動」を題材にしたものが多く刊行されています。
一例をあげると西川邦夫さんの『コメ危機の深層』(2025年9月10日刊, 日経BP 日本経済新聞出版 )、山口亮子さんの『コメ壊滅』(2025年9月18日刊, 新潮社)、荒幡克己さんの『令和米騒動 日本農政の失敗の本質』(2025年9月19日刊, 日経BP 日本経済新聞出版)、米騒動から日本が内包する食糧自給などの問題にも内容を広げた鈴木宣弘さんの『令和の米騒動 食料敗戦はなぜ起きたか?』(2025年10月17日刊, 文藝春秋)などがあります。
令和のコメ騒動に関連した書籍は2025年9月~10月頃にかけて刊行が集中しており、騒動への問題関心が高まっていたことを伺わせる一方、令和の米騒動の数年前に刊行された小川真如さんの『日本のコメ問題 5つの転換点と迫りくる最大の危機』(2022年6月21日刊, 中央公論新社)の刊行年に起こった出来事について、次のように記されています。
この年の1月にはトンガで大噴火が起き、2月にはロシアがウクライナに侵攻して、世界的な食料危機(引用者注:『日本のコメ問題』では「食糧」を「食料」として統一表記)の懸念が高まっている。食料危機への不安は、国内の農業に感謝するきっかけになる。国際情勢や世界的な穀物価格の高騰などどこ吹く風といった具合に、コメを安定的に食べられることの重要性が改めて評価されるに違いない。食料危機への不安は、日本の農業やコメ作りにとっては追い風なのだ。
(360-361頁)
ウクライナ侵攻による物価高、コロナ禍や令和のコメ騒動を経て広く注目されるようになった輸入偏重かつ先進国の中で低位である日本の食糧自給率は、イラン戦争の影響によるさらなる物価上昇といった変化を被った近年の状況からすると、2022年における小川さんの議論はまだ若干の楽観を残しており、危機的状況に警鐘を鳴らすような2025年9-10月に刊行された書籍群との対比が印象的に感じます。
2022年の刊行であるため、本書はアクチュアル(現在的)な状況変化に呼応していないという見方もあると思われますが、伝統的な協同組合のスタイルを継承する日本の農協の重要性を説く議論や、協同組合と新自由主義/外資の二項対立構造などが先行しがちな食糧危機論とは異なり、中立的な観点でコメのみならず田んぼへの着目を促すほか、人口減少と食料自給率の相関関係などについても分析されています。
著者の小川さんは島根県のご出身で、農業経済学、農政学、人間科学を専攻。東京農業大学工学部生物生産学科を卒業後、同大大学院農学府共生持続社会学先行修士課程、早稲田大学大学院人間科学研究科博士後期課程を修了され、本書と同年に既発表論文を収録した700頁超えの大著『現代日本農業論考――存在と当為、日本の農業経済学の科学性、農業経済学への人間科学の導入、食料自給力指標の罠、飼料用米問題、条件不利地域論の欠陥、そして湿田問題』(2022年7月29日, 春風社)を刊行されています。
本書は新書形式であるため、学術書である『現代日本農業論考』よりも広い読者層を対象にした内容となっており、コメの生産・消費にまつわる状況を1960年代以降(1967年は「コメの自給達成」が成された転換点)の現代史として振り返りつつ、現在の日本が直面する「田んぼ余り問題」や2052年に転換点として生じると指摘される「農地余り」についても、小川さんのご専門である農業経済学をベースに詳細が論じられます。
特に独自性のある部分は第7章に登場する食糧自給率が改善に向かう構造や「領域X」「転換点P」という論点(後述)で、差し迫った危機が論じられやすい食糧問題を長期的な時間軸で捉え直すという枠組みで議論が展開されています。
コメだけでなく、田んぼについて考える
小川さんはまえがきで「私たちがコメに困っていないのは、コメ問題がないからではない。コメを巡る問題が、ある未解決問題にしわ寄せされてきたからこそ、私たちはコメ問題を気にしなくてもよい日常生活を送ることができるのだ。本書で突き止めていくのは、こうした、より深層にある問題も含めたコメ問題の正体である。本書は『コメ問題』にピンとこない人や、普段、コメに困っていない人にぜひ読んでもらいたい」(5頁)と述べるように、本書では令和のコメ騒動で取り上げられることの多い消費・流通といった身近な領域や、報道などでも目にしやすい農政などのトピックではなく、コメの生産現場である田んぼや、コメにまつわる様々な意見や主張などが、次の引用箇所のように子細な分析が展開されます。
「日本人の主食はコメだから、日本のコメ作りを大切にしなければならない」という主張があるが、これはコメと田んぼを分けずに考えるからこその論理の飛躍であり〈食べること〉と〈作ること〉がいきなり結びついている。日本人にとって本当にコメが大切ならば、誰もが安く食べられるようにコメの輸入を増やす話になってもおかしくない。
それでも、こうした主張が自然と発せられる理由は、コメについて、コメという物質のみならず、暗黙の裡に田んぼや国土といったコメ以外のことまで含めて論じられているからだ。主食という表現には田んぼや国土利用との関わりが含まれている場合があるのだ。
(50頁)
小川さんの議論では「コメ問題の意味合いは、単なる食品の一つの食品として見るか、田んぼを含めてみるかによってずいぶんと違ったものになる」(18頁)と指摘されるように、田んぼへの着目が近年の議論と異なる点といえます。加えて、都市と地方ではコメの消費ではなくコメの生産・田んぼに関する認識にも大きな差異があり、広大な田んぼや棚田といった地方では馴染み深いコメ作りの風景に関しても、少子化や都市への人口集中などで、コメ作りの風景をイメージできる層は減少していくと共に、コメ作りが疎遠な存在になる(18-19頁)ことなども指摘されます。
平成のコメ騒動ではピナトゥボ山(フィリピン)の噴火で生じた冷夏などに起因する不作によるコメ不足や輸入米の解禁、令和のコメ騒動では南海トラフ地震を警戒しての買いだめ、コメの生産調整に関する農政の失敗、価格高騰、流通の問題、備蓄米の放出遅れや目詰まりなどが原因や論点とされており、田んぼへの着目は少なかったという印象があります。
物質・商品以外の観点で現代のコメ問題を考えようとすると複雑化する理由は、「コメを作らない田んぼで作られる農作物や、田んぼの維持や改良に対する多額の支援」(27頁)など、コメではなく田んぼに対する財政負担が問題の根幹を成す要因であり、「現代のコメ問題は、コメそのものをめぐる問題ではなく、田んぼをめぐる問題に取って代わっている」(28頁)と、小川さんは指摘されます。
令和のコメ騒動ではコメ不足による価格高騰が生じた一方、近年では2020~2022年(本書の刊行年)頃と同様に「コメ余り」が叫ばれていますが、小川さんはコメ余りよりも、「食べられるコメの量に対して田んぼが余っている状態」(29頁)である「田んぼ余り」への注目を促し、鹿児島県の総面積に匹敵する約90万ヘクタールの広さになる余った田んぼの活用方法が本書の後半で検討されます。
参考記事: 「コメ価格下落続く『コメ余り』と農家負担が広げえる不安」(松下尚也, 2026年5月17日, Yahooニュース)
農家の所得と田んぼの使い方に関する着目では、田んぼの面積が広いほど農家の総所得における農業補助金の割合が多く、生産農作物におけるコメの割合が低い一方、規模の小さい農家ほど補助金に頼らず専門的にコメを作っている(31-32頁)ことが、農林水産省の「2018年営農類型別経営統計」を基に指摘されます。
小規模農家では、コメ作りが赤字でも自家消費用は食料費、親せきや友人への贈答としては交際費と考えるほか、「家族経営の場合は、家族の労賃をゼロないし安い水準で過小評価することや、労働時間を心身の健康を保つ運動や生きがいの時間と考えることで、企業経営寄りも、はるかに厳しい経営環境を耐え忍ぶだけの強さを持っている」(35頁)といった特徴もあります。
コメの生産について興味深い点として、他の野菜と比べると労力や手間がかからず、短い時間で広い面積を使って栽培・収穫ができる(ただし所得は野菜より低い)ため高齢者でも負担が少ないことから担い手の年齢層が高いほか、平日はサラリーマンで週末にコメと作る兼業農家というスタイルも可能になっている(38-40頁)ことなどもあげられています。
2020年では、コメ作りに必要な面積は126万ヘクタールで、余った田んぼは鹿児島県の総面積に匹敵する約90万ヘクタール(60頁)とされ、「余った田んぼは現在のテーマであるのみならず、過去から引き継いだ日本人の資産を未来にいかに引き継いでいくか、あるいは引き継がないことを決断するか、という過去と未来を結び付ける重要なテーマ」(62頁)とされます。
コメと日本人
第2章から第5章までは、コメの歴史を1960年代から2008年までを中心に振り返る内容で、縄文・弥生時代から続くコメ作りは「コメの自給達成」が叶う1967年まで、「コメと人口がともに増えていく歴史」(64頁)であるとされます。
第1の転換とされる1967年は「豊作が天から与えられる恵みから、人為的に手に入れるものへと転換した」(74頁)時期とされ、トラクター、田植え機、育苗機、収穫機やコンバインの市販が本格化したことや、コメ用の殺虫・殺菌・除草剤の登場といった技術の進歩が高まり、戦後の農地改革で生産物の自己所有が可能になったことで、コメ作りへの意欲が高まったことが豊作の要因と指摘されます。
第2の転換点は1978年で、1967年の豊作以降に生じた「コメ余り」と「田んぼ余り」への対応策として作成された「水田利用再編対策」によって、「コメ作りの抑制が中期的に必要という認識が確立」(122頁)されました。
コメの生産抑制(「コメ政策」)は、余った田んぼに植える麦や大豆も含むほか、「『コメ余り』といっても、田んぼ余り問題に転換した部分もあれば、田んぼを余らせてなおも余ってしまったコメを意味することもある。『コメ政策』や『コメ余り』」は字面だけでは解釈できなくなった」(128頁)とされ、広範囲に影響を及ぼすことが指摘されます。
それに加え、第2の転換点ではコメの品質や銘柄、うまいコメの生産への関心が高まり、当時は小売りからの評判の悪かった新潟や北海道など、現在では大規模な米どころである北海道や新潟で積極的な品種改良が進められた時期にも相当するほか、余った田んぼをコメ生産以外にどう活用するかが模索された時期でもあるとされます。
1993年の第3の転換は、主にウルグアイ・ラウンド(1986~1993)におけるコメの輸入原則禁止の撤廃、ミニマムアクセス(最低輸入義務)の設定で、小川さんは「明治時代から第1の転換点(1967年)までの100年間、コメの輸入は珍しいことではなかった。そこから、コメ、とりわけ、ご飯用のコメは国産であるべきだ、という気運が急速に発展し醸成されたのは1980年代」(155頁)と指摘され、1988年に衆参両院の満場一致となった「米の自由化に反対する決議」(国内外に対する政治的パフォーマンスも含みながら) などが,コメは国産であるべきという認識を強めた出来事としてあげられます。
第3の転換は、コメのみならず農業全般についても、国内産(協同組合的保守)と海外産(市場主義的リベラル)という二項対立という今日の議論の土台を形成したと考えられます。また、農産物の中でも独自性が際立つのが日本人のコメに対する価値観の変化であり、小川さんは次のようにも指摘されます。
コメを自由化するか否かについて二分した国論をめぐって、コメのみを考えてしまえば、市場を開放してコメを効率よく扱い、国際的な動向への論調を求める賛成派と、入米を頑なに拒み、国産米に関係する既得権益を守る反対派とが対立しているような、イデオロギーの対立にみえる。しかし実際には、自由化に賛成するか反対するかは、コメについて思い描く意味や価値にも左右されており、議論は必ずしも噛み合っていなかった。
たとえば、〈日本人はコメを好んで食べる〉という共通認識があった場合でもコメを単なる商品と認識する者は、コメが好きな国民に外国の安いコメを提供することが国の責任であると考えた。一方、食料安全保障を強く意識しながらコメを認識する者は、コメが好きな国民のためにも国産を死守することが国の責任である、と考えた。主食を他国に委ねる危険性や、田んぼや農村への影響といった、物質や商品としてのコメにとどまらない意味や価値が付け加えられてコメが論じられたのだ。
(160頁)
この一文は、見落としがちだった点を突かれたようにも感じました。平成のコメ不足に折にはタイ米(インディカ米)が輸入されたことは、〈日本人はコメを好んで食べる〉という前提を踏まえるなら非常に合理的な施策だと思いますが、その食感のみならず炊飯器との相性や調理方法など様々な理由から、日本米(ジャポニカ米)の優位性が説かれてきました。
飲食店が国産のジャポニカ米を使用していることを強調するのは、国産米を使うことが食の信頼性を担保となっていますが、輸入に依存する日本の食糧事情においてコメはできる限り国産が望ましいとされている理由、いわば「コメは日本人の主食である」という認識が含有する意味の広さを深く考えることはなかったので、非常に興味深い指摘でした。
令和の米騒動を受けて刊行された書籍の多くは、小川さんが指摘される「食料安全保障を強く意識しながらコメを認識する」論調であり、食の防衛を論じた『令和の米騒動』の著者である鈴木宣弘さんも同様にコンサバティブなスタンスを持っておられる一方、小川さんはやや中立あるいは俯瞰的な立場ですが、本書の第7章における「領域X」「転換点P」の議論においては、リベラルな方向性が強くなるという印象を受けました。
第4の転換は「水田のフル活用」政策で、第3の転換が国際的な外圧/グローバルな影響から生じたのに対し、第4の転換は国内の政治関係から生じたという特徴があります。
小川さんによれば、戦後のコメ生産は補助金や政党と強く結びついており、GHQ時代は補助金不要論、高度経済成長期では農村構造改革を掲げた補助金増加、コメ余りの時代(1970年代後半)ではコメの生産抑制の一環として余剰田んぼへの補助金が支給されるようになりました。
2007年の民主党政権下では、自民党のコメ政策改革案が採用され、余った田んぼやコメの生産抑制協力に対する補助金支給が拡大しますが、コメの生産過剰によって田んぼ余りが増加しており、「余った田んぼへの補助金は、さながら余った田んぼが票田であるかのように増えていく」(202頁)という状態であったそうです。
民主党の「農業者個別所得保証制度」に対抗して自民党が打ち出した政策案が「水田フル活用」であり、自民党が参議院第一党に復党するまでの間に両党の間で政策が育まれ、「コメを作らせない政策の別称」(「減反」や「生産調整」よりもポジティブ)、「できるだけ広い面積の田んぼを使うこと」、「同じ田んぼにできるだけ多くの農作物を植えること」(206頁)の3つの意味が「水田フル活用」に付与されたそうです。
その一方、コメ政策改革が再始動した2014年から、一連の政策は補助金を多く出すことでコメの生産を国がコントロールするような「コメを作らせない政策の別称」という見方が強まっていた(250-251頁)ことや、田んぼ余り問題の根本的な解決には至らず、現在にも引き継がれた未解決問題(258頁)であることを小川さんは指摘されます。
コメ問題から余剰への対応を学ぶ
小川さんが言及する4つの転換点は、①コメの自給達成(1967)、②田んぼ余り問題(1978)、③コメの輸入強化と国産米への着目(1993)、④田んぼ余り対策強化/水田フル活用(2008)であり、4つの転換で生じた出来事の帰結として現代のコメ問題が生じています。
今後の話として第5の転換点が提示される第7章では、カロリーベースで36%という低さが問題視されがちな日本の食糧自給率について、大きな時間軸や人口の推移を見ることで自給率はむしろ改善に向かっていくことも指摘されます。
自給率が改善に向かう理由は、将来的に減少していく人口推移と全人口を養うための農地面積(実際の農地とは異なる、「食料安全保障上、必要な農地」)の変化であり、現時点では「食料安全保障上、必要な農地」の面積が人口に対して足りていませんが、2019年時点での農地が守られているならば、人口減少に伴い2051年から2052年にかけて逆転していく(317-20頁)と指摘されます。
小川さんの見立てによれば、人口減少に伴い「食料安全保障上、必要な農地」が小さくなり、「実際の農地」との面積の大小が逆転し、「食料安全保障上、必要な農地」が余る地点/時期が「転換点P」、余った農地は「領域X」と定義されます (318頁)。しかし、転換点Pはあくまでも予測モデルであり、実際の農地が減ってしまうと転換点Pの到来も遠のいてしまうため、現実的な取組みとしては「必要な農地」を維持するという意見もありますが、小川さんはそういった意見には落とし穴があると指摘し、次のように述べられます。
食料安全保障にこだわって農地が減ることを危惧する考え方は、人口が増える局面や、現在のように農地が足りない局面で成り立つ発想にすぎないからだ。人口減少によって「食料安全保障上、必要な農地」が減る中で、食料安全保障にこだわって農業や農地を守ることを訴えても、食料安全保障からみて必要な農地が確保できた先の未来の展望を持ち合わせていなければ、衰退していく農業や農地への根本的な処方箋にはなりえない。
(322頁)
余った農地である領域Xの活用例として、食糧生産のための農業用地だけでなく社会福祉的な農業用地(障碍者の活躍、健康維持、ソーシャルキャピタル/社会的な繋がりの形成促進)としての利用や、太陽光発電設備の設置など(334頁)があげられています。
本書では言及されませんが、近年ではクリーンエネルギーと蓄電地を組合せた蓄電所にも注目が集まっており、いずれ領域Xの活用事例として蓄電所や蓄電所と組み合わせたデータセンターが登場するかもしれません。
主食用のコメのみならず、田んぼ余りや貿易、政治など様々な領域が絡み合うコメ問題ですが、重要なキーワードとして「不足」「余り(余剰)」があげられます。小川さんの指摘された第1の転換点はコメ「不足」の解消と自給の達成、第2の転換点が「コメ余り」「田んぼ余り」で、この2つの転換点が、今日のコメ問題にも大きな影響を及ぼしているといえます。
不足の解消と余剰の活用について考える領域Xと転換点Pに相当する用語が農業になかったことについて、小川さんは「日本人が農業を評価する際に〈足りている豊かさ〉という規範に固執しており、〈余っている豊かさ〉という規範が欠けているためだと考えている」(329頁)と指摘されます。
足りる/余っている豊かさといえば、令和の米騒動における、生産の見通しや備蓄米についての考え方を巡る混乱や、政府と消費者との認識のズレなどに通ずるものがあります。令和の米騒動が収まった2026年には「コメ余り」が問題化していますが、コメの余剰を解消すべき問題ではなく、「余っている豊かさ」として肯定的・効率的な活用方法を見出すことが、異常気象や災害による食糧危機といった有事に対する備えになるとも考えられます。
小川さんは、日本は飢餓や口減らしといった食料不足の歴史を重ね、戦後でも輸入に頼ることで食糧不足を補うなど、国内農業のみで需給を満たせない状況が続いており、それが「一種の安心感」を生じさせる(329頁)と指摘されます。食糧不足から生じる「安心感」は、「平和な時代にあって、国内の農業だけでは食料が足りないとしても、普段の生活では何も困らない」という安心感や、「いざというときに食料が足りないからこそ。国内農業の大切さは疑いようがない」という安心感(329頁)であり、それらについて次のようにまとめられます。
たとえば、食料自給率の低さについて、普段の生活に影響がないため不安に思わなくてもよいと考える人がおる。一方で、日本の農業の大切さを訴えたい人にとっては〈足りてないという貧しさ〉が続いているため、これまでと同じように日本農業の大切さを主張し続けることができる安心感がある。食料自給率の低さを気に掛けるか否かという立場の違いこそあれ、そこには〈足りている豊かさ〉の規範の評価軸でそれぞれにとっての安心感が生み出されているにすぎない。
(329-330頁)
余剰状態をどう捉えるか
小川さんは日本人が農業を評価する際、「足りている豊かさ」という規範に固執する傾向がある一方、「余っている豊かさ」への関心が薄いため、転換点Pや領域X(余剰農地)に相当するような用語がない理由としてあげられます。
「余っていることへの関心」の欠如や、「余っている豊かさ」を受け入れる姿勢が整っていない状態は、令和の米騒動における備蓄米の取り扱いや、二転三転する生産調整政策などにも見出せますが、特に小川さんが強調するのは、「自然現象のように私たちが何もせずとも未来で起きる現象ではなく、日本人にとって〈余っている豊かさ〉という規範を導けるかという問いの形で、現在すでに突きつけられている」(332頁)領域Xの到来です。
不足と余剰について、食糧や土地以外では原油不足や猛暑による電力不足の見通しなどは頻繁に話題にされます。しかし、電力余りや余剰電力の活用などは不足よりも話題に上りにくい印象もあります。とはいえ、余剰電力の活用については太陽光発電などで生じたFIT(固定価格買い取り制度・売電)/卒FIT(買取期間終了)や、太陽光・風力で生み出したクリーンエネルギー(国内では北海道と九州が、再エネルギーを持て余している)の余剰分を蓄電池・蓄電所などを通じた活用が進められています。
余った田んぼ(食料安全保障上の不要な農地 =領域X)は余剰分の土地なので、インフラや地理的な問題はありますが需要の高いデータセンターなどを作ることが合理的と考える人も少なくないと思います。ですが、余った田んぼは「過去から引き継いだ日本人の資産を未来にいかに引き継いでいくか、あるいは引き継がないことを決断するか、という過去と未来を結び付ける重要なテーマ」(62頁)でもあり、越前市の例では先祖代から受け継いだ田畑を守るために、定年後に農業に従事される方もいるそうです。
小規模・個人の農家さんの中には先祖から受け継いだ守るため、定年後に収支・損得を気にせず農業や稲作に勤しむ人もいるため、食料生産に必要な土地面積が少なくなる「転換点P」の到来に備え、余った田畑=領域Xの活用法を自治体の協力も含めて考えていく必要があると思われます。
小川さんが巻末で上げられている活用例の提案としては「多様な農業が共存する社会への貢献」、領域Xを障碍者の活躍、生きがいや健康維持、人間同士の社会的つながりの場として活用する社会福祉、太陽光発電設備の設置などがあります。とはいえ、「日本は世界や欧米からみて国土や人口あたりでみた農地面積が非常に小さくて貴重」(339頁)であるため、小川さんは農業での利用が最適と述べられるほか、「農地の将来性から農地の未来を語れる時代が終焉するという次の時代の転換点が差し迫っている」(357頁)段階では、個々人の主観が重要になることに触れ、次のように記されます。
コメ作りや農業が、日本の農業や農地、国土にどのような意味や価値を見出すかという主観、いわば農業観、農地観、国土観が問われている時代が現在であると思わずにはいられないのだ。
(357頁)
食料自給関連も含めた農業観・農地観で顕著な例は、「国内の農業だけでは食料が足りないとしても、普段の生活では何も困らない」人と、「足りてない貧しさ」から日本の農業の大切さを訴える人という対比関係であり、農業関係者に多い後者の主観はやや市場主義・新自由主義的な潮流に対してはやや保守的・伝統遵守というポジションを取ることが多くあります。
一方、小川さんの指摘される「余っている豊かさ」を受け入れる姿勢も、支配的な論調になりがちな「足りてない貧しさ」を多角的に捉える主観のひとつのあり方として、転換点Pが近づく時代において重要さを増していくのではと考えられます。
農業や農地への価値・意味付与においては、エコツーリズムやアグリツーリズム(サスティナブルツーリズムと農業の掛け合わせ /グリーンツーリズム)なども農業・農地の新しい活用法でとして実践されています。一例として、全国的に見ると僅かな面積に留まる田畑を有効活用するため、慣行栽培ではなく有機栽培やスマート農業の導入を推進する福井県越前市(水稲のほか、そば、大豆、キュウリ、トマトなどを生産)では、海外に向けてサスティナブルツーリズムを特色として打ち出し、国連が認定するBTV(Best Tourism Village)の認定に向けた取り組みを進めており、越前市の事例を踏まえるならば、海外層や富裕層を対象としたツーリズムへの展開を視野に入れた「領域X」の活用法なども今後増えていくかもしれません。
異なる観点と長期スパンでコメ問題を考える
320頁という新書版としてはボリュームのある本書は、「コメの自給達成」が成された1967年から近年に至るまでのコメの受容史(第2章~第6章)と、「コメ」と「田んぼ」に分けてコメ問題を考えるという問題提起(第1章)、領域Xや転換点Pという独自概念の定期と余っている豊かさの考察(第7章)と、非常にユニークな内容になっています。
特に、第1章はコメの不足や米価の不安定化、農政の失敗、稲作農家の疲弊や支援不足などが注視されやすいコメ問題に田んぼ余りという観点が導入され、本書の末部で論じられる、余っている豊かさを受け入れる姿勢に関する議論へと展開されていきます。
これまでに取り上げた鈴木宣弘さんの『令和の米騒動』や久保田治己さんの『農協が日本人の “食と命”を守り続ける! 安全・安心に賭ける人々の物語』(2024, ビジネス社)元JA全農幹部という久保田さんの立場や実務経験に基づき、農協の協同組合的なスタイルに軸を置いた議論が展開され、いずれの著作でも近年の状況や差し迫る食糧危機にどう対応するべきか、という論点が中心に据えられています。
一方、小川さんはアカデミズム寄りの立ち位置かつ、余っている豊かさを受け入れる姿勢や、田んぼ余りを肯定的に捉え・活用する領域Xが提起されるなど、協同組合的コンサバティブと市場主義的リベラルの二項対立や食糧危機論が主要なトピックとして言及される鈴木さん・久保田さんの議論とは異なる「農業観、農地観、国土観」が見出せます。
農業問題については、主に食糧自給率や食の安全、農家や農政が中心に取り上げられることが多いのですが、冒頭で提示される「コメ」と「田んぼ」を分けて考えるという観点は、農業問題に関する議論の盲点を指摘されるような気付きがありました。
コメ問題というと手垢のついたテーマのように思う読者もいるかもしれないが、田んぼを含めてコメ問題を捉えるならば、今まさに日本人全体としてコメ問題の本質を知っておく必要がある。それはコメの生産・流通・消費にまつわる単なる知識ではなく、コメ問題の本質にある田んぼの問題まで掘り下げた知識だ。日本人の歴史に深く刻まれながらも、深く考える機会が減ってしまったコメや田んぼは、いま一度光を当てることで、日本の社会に迫りつつある最大の危機や、また現在、そしてこれからを生きる日本人がその危機に対してどのような選択肢をとりうるか、ということも教えてくれる。
(62頁)
田んぼや稲作は雨が多く酸性土壌の多い日本の風土に適しているほか、水害に強く、棚田のように山間・谷間でも耕作がしやすく、連作障害が発生せず、ダムとしても機能し、四季に応じた変化を見せるなど、生活に根差し、なおかつ先祖代々受け継がれてきた土地という点で、二重の意味で日本の伝統ともいえます。
本書では到来しつつある危機として田んぼ余りや余剰農地があげられますが、それ以外の様々な危機(食糧、人口、エネルギー危機や異常気象・天変地異)に見舞われる、あるいは予測そえる時に、田んぼという日本の伝統の着目することで、そこから導き出される機能性や生活の知恵といった、危機的状況を対処するための方策が導きだせるのではないか、ということも思いました。
関連記事
・鈴木宣弘『令和の米騒動』
・久保田治己『農協が日本人の “食と命”を守り続ける!』
・日本の農業と越前市の農業について(1)
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