ホーム > 経営・哲学 > 危機の際に人を救うものとは(2)

経営・哲学

危機の際に人を救うものとは(2)

危機の際に人を救うものとは(2)


5バリューアセット株式会社は、日本のIFA(金融商品仲介事業者)を変えたいとの理想の下に、代表斉藤彰一が立ち上げた企業です。

当社ではお客さまと社会に役立つ存在を目指し、経営哲学・理念の共有や、精神性の修養に努めるべく、外部講師をお招きしての社内勉強会を定期的に催しております。

以下では、当社が開催した社内勉強会についてご紹介させて頂きます。


2026年2月6日、第10回のオフサイトセミナーを開催しました。第10回では、前回に引き続き『故郷を忘れた日本人へ』(2022, 啓文社書房)や『読めない人のための村上春樹入門』(2025, NHK出版)などの著作を持つ仁平千香子先生(文筆家、フリースクール東京y’s Be学園実学講師)にお越しいただき、「危機の際に人を救うものとは」という演題でお話を頂きました。

主だった内容は、仁平先生の著作『故郷を忘れた日本人へ』の第4章「伝統の価値」で取り上げられた、石村博子『たったの独りの引き揚げ隊』(2012, KADOKAWA)を例に、受け継がれてきた伝統(信仰、風習、制度、思想、知恵、慣習、精神性など)が、有事の際に助となる例を切り口に、近代化(=西洋化)によって日本は多くの伝統を忘却してしまったが、言葉の中に「私」や世界の捉え方や自然観といった日本の伝統が残っている可能性があるということが指摘され、西洋言語と日本語の比較分析や日本の近代化で生じた変化、日本語の中に残る伝統などについてお話いただきました。

前半部では『たった独りの引き揚げ隊』に関するお話や、今日における伝統、日本の近代化と西洋言語的な主体観や自己責任社会の定着といった内容が中心となり、後半部では日本語と英語の言語的特徴の比較などを通じ、言語が世界の捉え方に与える影響などについてまとめていきます。

日本語の特徴を分析する

今回の仁平先生のお話の中では言葉に関する問いがいくつか出されました。まずは主語に関わるもので、下記の2問になります。

Q. Thank youの主語はなんですか ?

Q. ありがとうの主語はなんですか?

 Thank youはI thank you.なので、「私」が主語となり、私があなたに感謝をするという行為を示します。一方「ありがとう」は、「~が『有難い』」という意味で、誰かがしてくれた行為や、めぐってきた出来事が『有難い』という意味が含まれています。また、日本語では、私ではなく「出来事」や「関係性」を主語として指すという特徴があり、「ありがとう」の主語は「めぐってきた出来事」となります。

同様に「すみません」の主語は、「済む/済まない」(終わっていない)という意味があり、関係・やりとりが終わっていない状態に対して「済みません」という含みがあります。手間をかけさせたり、助けてもらったことに対してお礼ができていない、感謝ができていない、関係の調整が終わっていないことに対して「すみません」という感情を抱き、I’m sorry (「私」が申し訳なく思う)という英訳とは異なるニュアンスであると指摘されます。

言語構造の違いを見ると、主体である「私」がまず存在する英語・西洋語では主体性や個性が重要視されます。一方の日本語では、まず出来事や関係が先にあり、それに対して反応する私が表れるという特徴があります。

日本語は自己主張を苦手(前に出るより遠慮がちなほうが落ち着く)とする言語であるので、日本語の話者は後ろにさがることが自然さや心地よさを感じますが、英語・西洋語では主体としての「私」を前に出さなければ文が成立ないため、自己主張や自己規定を重要視されます。「私」を前に出す・後ろに下げるという違いから、西洋語圏から見ると日本人は自己主張が苦手と思われることが多いそうです。

英語では「誰が何をした」(他動詞中心、主体を前に)を重視し、日本語は「何が起こった」(自動詞中心、出来事を前に)に着目する言語であり、両者の差異が如実にでる例がスポーツの実況で、野球であれば日本の実況では「投げた」「打った」「走った」と出来事を中心に説明する一方、英語では名前を連呼し「誰」が行っているかを中心に伝えるという差異が表れているそうです。

日本語では「私のおかげ/せい」より「世界のおかげ/せい」と考える場合が多く、独立した存在ではなく出来事の一部や、巻き込まれる存在として「私」を認識しているため、自動詞の感覚のほうが腑に落ちると仁平先生は分析されます。また、世界は「私」が統御するものではなく、「おのずから」(自然の流れ)の力で支えられていることを知っているという感覚が日本語の中に残っており、その中でも特徴的なのが「~することになりました」という言葉であると指摘されます。

結婚、就職、転職、引っ越しなど重要性の高いものや節目の出来事について、日本語は「~することになりました」という表現を多用する特徴があります。「~することになりました」には私だけの働きではないというニュアンスが含まれており、流れに巻き込まれる、「私」が世界をコントロールしているわけではない、という感覚で言葉を話していると指摘されます。

英語では「~することになりました」を訳すことが難しく(第9回オフサイトセミナーを参照)、出来事の選択や決断を行ったと主体を明確化する必要があります。また、英語は世界を管理・定義し、動きを止めて静止画として保存し、アイデンティティ(私の定義)を重視する、「世界を説明する言語」という特徴も指摘されます。

英語が説明的・静止画的な言語であるのとは対照的に、日本語は「世界で起きていること・流れを伝え」、世界を「そうなっていくもの」として眺めたり、時間を含んだ映像として受け止めることに長けた言語です。文学作品でも言語的特徴に基づいた世界の捉え方が反映されており、その一例として、仁平先生は川端康成の『雪国』(1948)の冒頭部を取り上げられます。

・国境の⻑いトンネルを抜けると雪国であった。

・The train came out of the long tunnel into the snow country.(列⾞は⻑いトンネルを抜けて雪国に⼊った)




英訳は出版された公式版の翻訳なので英語話者が自然に読めるようなものになっていますが、川端による原文と英訳および和訳を比べてみると、語り手の位置やニュアンスが異なるという印象を与えます。日本語の場合は語り手が列車に中におり、出来事に巻き込まれているようなイメージを提示することが得意な一方、英訳した瞬間に視点が外(出来事を見ている「私」)に置かれてしまい、安全な場所から全体を把握するような、遠近法的な視点になってしまうという差異を、仁平先生は指摘されます。

内の感覚がある日本語は出来事の中に「私」を位置付けますが、外の言語ともいうべき英語では、「私」が世界を見ている(所有している)というニュアンスが強くあり、仁平先生が『雪国』の冒頭文の英訳について指摘された「遠近法的な視点」は絵画を例にするとよりわかりやすく、ダ・ヴィンチの『最後の晩餐』(1495-1498)などは、出来事の全体を外部から見ている「私」の主観/一人称視点(First Person View)で描かれています。




それに対し、ベラスケスの『ラス・メニーナス(女官たち)』(1656)は、一見すると肖像画のモデルになっているフェリペ4世夫妻の視点が「私」と重ね合わせられているように感じますが、後方の鏡に夫妻の姿(諸説あり)が映ることで、「私」の位置が完全な外側(遠近法的な視点)から、絵に描かれた出来事に巻き込まれるような「間(あわい)」にあるような印象を生じさせます。



『ラス・メニーナス』は空間構成や技法、アトリビュート(属性/持ち物)、主体の視点など、様々な観点から数多の作品評が展開されてきましたが、『最後の晩餐』を英語的・遠近法的とするならば、鑑賞者を出来事に巻き込むような『ラス・メニーナス』は日本語的な世界観に近いようにも思えました。

have言語としての英語

エーリッヒ・フロムは『生きるということ』(To have To be, 1976)の中で、西洋近代は「私」が所有すること(持つということ)や私有財産、「have言語」を発達させ、新大陸の発見や植民地化は世界をhaveすることを指摘しました。日本語と英語の違いは「have言語」であるか否かが大きな要因を占めています。


近代化(西洋化)はhave化であり、英語をみるとI have time / I have a problem / I have a plan / I have a meeting / I have homework / I have a headache / I have a cold / I have pain / I have anxiety / I have fear / I have hope ….というように行動の多くにはhaveが用いられる一方、日本語では「時間がある」「問題がある」「頭が痛い」(自動詞)という非have的な表現が用いられます。

フロムによればhave言語はもともと少数派で、「います」「あります」というような表現を使う言語のほうが多かったそうですが、近代化・植民地化によって世界の言語や日本語もhave化していると仁平先生は指摘されます。

英語では「赤ちゃんが生まれました」「お子さんがいますか」という文章はどちらもhaveが用いられ、子供に関する言葉は「持つ」というニュアンスが含まれています。現代の日本語では子供を「持つ/持たない」「子供を持つメリットは?」というようなhave言語的な表現が自然な日本語として定着し、日本語的には「授かりもの(おのずからやってくるもの)」であった子供が「持つ/持たない」「産む/産まない」というhave言語的な認識にかわり、「我が子」(私と深く関係する子ども/ ある[to be]の思想 )という言葉も「私の子」(私が所有する子 / to haveの思想)へと変わり、「私の子」なので、「私」の好きにしてもいい/「私の」子供なので他人に介入されたくないというmyの思想への変化が生じ、それが社会の価値観にも影響を及ぼしていると分析されます。

世界の語られ方の違い

日本の神話では、世界も神もすでに「あった」(自動詞)状態で、「天地開闢(てんちかいびゃく)」では、天地が未分化の世界が〈あり〉、天と地に〈分かれ〉、神が〈生まれ〉というように、「おのずから」そうなるものとして、自動詞を多用する形式で語られ、様々な物事はいつのまにかそうなるものと考えられています。

流れに身を任せるしかないという、日本における世界・自然観(無常、形あるものもいつか崩れる、「しょうがない」「諦め(明らかに見る)」「諦観」)などは『平家物語』や『方丈記』などにも、如実にあらわれており、そこには前近代の日本語における伝統(日本の自然観)などを見出すこともできます。


「⾏く川のながれは絶えずして、しかも本の⽔にあらず。よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。」(『⽅丈記』)

「祇園精舎の鐘の声、諸⾏無常の響きあり。沙羅双樹の花の⾊、盛者必衰の理をあらはす。おごれる⼈も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし。たけき者もつひには滅びぬ、ひとへに⾵の前の塵に同じ。(『平家物語』)




一方、旧約聖書を見ると下記のように、他動詞を使った文章が中心で、主語(神)が明確にされているほか、「治めさせる」という部分は荻⽣徂徠の『政談』で登場した「治める」(「治まるようにする」「なるようにする」というニュアンス)ではなく、「統治」に近い意味とされます。

• はじめに神は天と地とを創造された(他動詞)

• 神は「光あれ」と⾔われた

• 神はおおぞらを造って、おおぞらの下の⽔とおおぞらの上の⽔とを分けられた

• 神が⼈間を神に似せて作った

• 「われわれのかたちに、われわれにかたどって⼈を造り、これに海の⿂と、空の⿃と、家畜と、地のすべての獣と、地のすべての這うものとを治めさせよう」



西洋的な価値観では、世界は「みずから」作るもの、計画するもの、設計するものと考えられ、そのためには世界をhaveすること、haveする「私」を前面に出して行為者・責任を明確化すること求められます。

「畏れ」の役割

前回のお話でも言及された、『夜と霧』( Ein Psychologe erlebt das Konzentrationslager / 英: Man’s Search For Meaning: An Introduction to Logotherapy, 1946)の著者で精神科医のヴィクトール・フランクルは「畏れ」の役について、現代人は畏れの感覚を失っており、畏れ(畏怖の念)がないと生の感覚を感じられないと指摘します。

畏れを持つということは、人間の力ではどうしようもできないこと(「おのずから」の働き)があると認識することで、畏れを失った場合は、全ては努力次第で変えられる・理解できる・管理できるという認識(「みずから」の働き)を持ってしましまい、物事がうまくいかない場合は誰かのせい(誰かの失敗・怠惰・努力不足)/他責と考えてしまい、生きにくい社会になるとされます。

フランクルの論じる畏れの感覚は、仁平先生のお話の中でも繰り返し登場する「しょうがない」や「(流れに)巻き込まれる」など、「私」が万能・全能ではないことを許容すること、言い換えれば傲慢に陥らず謙虚な姿勢を持つことでもあります。また、フランクルは「自己実現を目指すほど、人は幸福からから遠ざかる」とも記し、目の前の仕事や誰かのための行為に没頭している時に自己忘却(「私」を忘れる)ことができ、「私」を忘れることで不安を感じにくくなると指摘します。

仁平先生はフランクルの幸福と自己実現に関する部分を、「私」が前に出すぎることで「私」への執着が生じていると分析され、現代の合言葉は「個性の発揮」や「自分らしさ」など、「私」を前面に出すような要請が多く登場し、教育の現場でも「個性発揮」「『私』を前に出しなさい」というメッセージが強く推進され、子供にとっては苦しい環境となるケースがある可能性についても触れられました。

流行の歌でも「私は/私を」というようなフレーズが多く、教育現場以外でも「私」を前面に出すことが現代社会のあらゆる場所で要請されています。とはいえ、「私」への没頭が不安を生じさせるという悪循環は、芥川龍之介が「ぼんやりとした不安」と記した時代から変わらず存在しており、不安の悪循環が続くと他人への恐怖や関係を築くことへのリスクが増加していくため、仁平先生はSNSなど安全な位置から繋がろうとする若者が主流になることは致し方ないことだと述べられます。

文学に見る近代日本の自己責任社会

日本における自己責任社会の始まりを象徴する作品として、夏目漱石の『こころ』(1914, 連載: 1914年4月20日~8月11日, 『朝日新聞』)が取り上げられ、仁平先生は「『私』の内側が『責任処理装置』になった悲劇(『全ては私の責任だ』という勘違い)」と、同作についてまとめられます。



『こころ』の時代背景は、身分が解体されて家の力が弱まり、主従関係も消えた近代である一方、行為や結果の原因や理由を、「私の責任」として引き受けなければならないという、自己責任社会が広まり始めた時期でもあります。

主な登場人物は「先生」と友人の「K」で、先生は叔父の裏切りで財産(近代では先代から受け継ぎ子に継承する「家のもの」から「私のもの」に変化)を失ったことについて、管理不足と叔父を信じた自分に責任があると考えており、Kの自殺も自分の責任(「全てわたしのせい」)だという念を抱いています。 

Kの場合は、友情、貧困、家族制度、宗教的禁欲、明治の競争社会などが複雑に絡み合って生じた自責の念を持ち「⾃分は薄志弱⾏で到底⾏先の望みがないから、⾃殺する」という一文を遺書に記します。浄土宗僧侶の次男であるKは「精神的向上」を⼈⽣の絶対的価値とし、禁欲と⾃⼰統御を理想としますが、後に先生の奥さんとなる静に恋をし、こころが揺れた⾃分を「失敗」と見なすなど、「私のせい」だけにできないことを、「私のせい」にしたり、世界や⼈間の複雑さを無視して、原因を単⼀化してしまいます。

先生とKの共通点として、「迷いや葛藤はいけない(確固たる「私」であるべき)」、「すべては自己責任」、「『こころ』は揺れてはいけない」、「『こころ』も所有物であり、私が管理し責任を持たねばならない」という前提を持っていることを仁平先生は指摘されます。

『こころ』で描かれるのは、判断や責任が「私」という一点に集中した際に生じる悲劇であり、「気づけばそうなっている」ものであり、「コロコロ」と変わるものである「こころ」は作るもの・変えるもの、所有できるものではないため、西洋言語的な発想(haveの思考)と噛み合わないことが明示され、近代の理想では人は幸せになれないということが教訓として語られます。

日本語の中にある伝統

「私」よりも出来事(世界の流れ)を前に出す日本語は、近代の理想的な人間象という重圧に苦しんだり、生き辛さを抱えて不安の悪循環に陥ってしまう状況において、世界の「私至上主義」化のブレーキになっている可能性があると仁平先生は指摘されます。

西洋諸国では「私」病(私への執着)が蔓延しており、出た症状に対して治療で対応することで精神分析や臨床心理学も発展してきました。西洋の「私」病の例として思い出したのは、極端な例ではありますが、ニーチェが発狂直前に記した「狂人書簡」(1889)の一文です。



An die Prinzeß Ariadne, meine Geliebte.
我が愛しのアリアドネ王女へ (※ギリシャ神話のクレタ島の王女)

Es ist ein Vorurtheil, daß ich ein Mensch bin.
私が人間というのは偏見です。

Ich bin unter Indern Buddha, in Griechenland Dionysos gewesen.
インドでは私は仏陀で、ギリシアにおいて私はディオニュソスでした。

Zuletzt war ich noch Voltaire und Napoleon, vielleicht auch Richard Wagner … 
私は以前にはヴォルテールやナポレオンでありました。もしかすると、リヒャルト・ワーグナーでもあった可能性もあります。

コジマ・ワーグナー宛の手紙(1989年1月3日)


ニーチェの書簡は「私」への執着が極端に発露し、「私」がニーチェという個人ではなく、様々な「私」を認識する(言語的な規範から逸脱しているので、狂気と見なされる)という状態ですが、狂気に足を踏み入れてもなお、「私(は)」[Ich (bin) )]という構造でなければ文章が成立しない西洋語における「私」病濃く出た事例であるといえます。

日本語の特徴について説明すると「私を消しましょう」という戦略であると勘違いされやすいと仁平先生は前置きしたうえで、「私」を前に出しすぎると近現代では非常に生きにくいということは、夏目漱石や芥川龍之介の「不安」で見たように、ここ100年ほどの間で証明されており、それを踏まえたうえで「少し『私』を後ろに下げてみませんか」という日本語の視点からの提案と述べられます。

世界は人為(「誰が何をする」)だけでなってはおらず、人間は「そうなっていく」という世界の流れの中に巻き込まれている存在(フロムの言葉でいえばhave/持つ様式ではなくbe/ある様式)ということを教えてくれる、というのが日本語の知恵(伝統)であり、巻き込まれていることを忘れて傲慢になったとき、人間は世界の複雑さを忘れて「誰のせいか」を考えはじめ、結果として自責(先生とK)、他責(犯人や原因の追究)へと繋がっていきます。その結果として、人為的に作られた「誰かが傷付く構造」を維持してきたとがここ100年の状況で、日本が残してくれた伝統とどう向き合うかが、現在の我々が直面する課題であると仁平先生はまとめられます。

古賀少年のケースにおけるコサックの伝統は、過酷なフィ―ルドでサバイバルを行うための生きる/生き残るための知恵であり知恵でした。日本語の中に残っている伝統(to haveではなく、to be的に「私」を流れの中に位置付ける)に目を向けることは、コサックの伝統のように命を救うという大げさなものではなく、生き辛さや「私」を全面に出すことをよしとする現代社会の要請に縛られすぎないためのライフハックのようにも思えました。

また、現代の「私」病的な生きづらさや、「神経衰弱」「不安」などは100年ほど前でもあまり変わっていないということからも、過去の人は「私」を要請し続ける自己責任社会をどう見てきたかを知る上でも、現代的な問題関心を持って日本近代文学を読むことが、より多角的な観点を得るきっかけになるとも考えました。


関連記事

文学から「お陰様」を学ぶ (第9回オフサイトセミナー)

鈴木 真吾

鈴木 真吾

2023年3月よりインハウスクリエイターとして写真・映像撮影および編集、グラフィックデザイン、DTPなどを担当。専攻は文化社会学、表象文化論等。

ご案内

5バリュースクウェアは、5バリューアセット株式会社(5VA)によるコラムを掲載するサイトです。資産運用や資産形成、経済全般などにご興味がある方に向けて情報発信をしております。

気軽に相談ができる場として、無料個別相談を設けておりますので、以下より詳細をご確認ください。